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夢はブンデスリーガ初の日本人監督。
“新たなモウリーニョ”河岸貴とは?
text by
遠藤孝輔Kosuke Endo
photograph byKosuke Endo
posted2015/06/05 16:40
写真左から、ギュンター・シェーファー、河岸、イェンス・アンドライ。河岸の日本人らしいともいえる真摯な働きぶりは、欧州サッカー界でも高く評価される。
シェーファーも認めた“サッカーへの情熱”。
では、河岸自身のマネジメント力を含めたポテンシャルは、具体的にどう評価されているのか。その疑問に答えてくれたのは、マティアス・ザマーが率いた'04-'05シーズンのシュツットガルトでアシスタントコーチを務め、来シーズンからトップチームのチームマネジャーを務める往年の名手、ギュンター・シェーファー(現シュツットガルト・サッカースクール長)だ。
「シュツットガルトの下部組織で指導しているタカを初めて見た時に、こう思ったよ。サッカーに対する情熱に溢れていて、なによりハートが素晴らしい。子供たちをその気にさせるのが上手いし、自分と同じタイプの指導者だってね。実は子供を指導するのは、大人を指導するのと大差ない。だからトップに上がっても、タカは慎司をよくモチベートしていた。情熱的で、エモーショナルなその性格が、チームに良い影響を及ぼしてもいたね」
シェーファーが見逃さなかったのは、トレーニング時における河岸の振る舞いだろう。
スタメン組がリカバリーに費やす試合翌日など参加者が限られる全体練習で、河岸はラバディア監督の指示に従い、選手の役割をこなす機会が少なくなかった。その際に萎縮したりはせず、むしろ誰よりも声を出したり、積極的にパスを要求する前向きな姿勢を示し、チームにポジティブな空気を吹き込んでいたのだ。
一方で、前述のニーダーマイアーとの一件から窺えるとおり、河岸は自分の職務時間外の貢献も厭わなかった。岡崎や酒井が居残り練習するなら、当然のようにサポート役を買って出ていたという。利他的なメンタリティーはもちろん、シェーファーが認める“サッカーへの情熱”があればこその自己犠牲だろう。
教職を辞して、サッカーへの夢を追い求めた。
河岸はそもそも'04年7月に渡独するまで、日本で高校教師を務めていた。一念発起してドイツに向かったのは、サッカー選手になる夢を捨てきれなかったから。そして知人の紹介などもあり、3年ほどはシュツットガルト近郊のアマチュアクラブでプレー。しかし、度重なる怪我に苦しみ、現役生活に終止符を打たざるをえない状況に直面する。その時に、以前から興味を抱いていた指導者の道を歩む決断を下した。
「やるからにはトップのところで」
そう心に決めた河岸は、知り合いの家族が下部組織でコーチを務めていた縁で、シュツットガルトのU-9コーチとなる機会を得る。しかし、当初は無給での勤務を余儀なくされた。それでも腐らなかったのは、やはりサッカーへの情熱が河岸自身を奮い立たせていたからだ。日本料理のレストランでのバイトで生活費を工面しながら、ようやく正式契約を勝ち取ったのは'09年だった。