詳説日本野球研究BACK NUMBER
野球選手の頭に機関銃???
“グローバルリーグ”仰天顛末記。
text by
小関順二Junji Koseki
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2015/02/26 10:30
グローバルリーグから帰国して会見する東京ドラゴンズ・森徹監督。プロ野球から縁遠くなった選手とアマチュアから成るチームは、過酷な状況をくぐり抜け、今こそ顧みられるべき成績を残したのだった。
素行の悪い指導者と選手の集まりだった!?
社長を務める旅行代理店が軌道に乗っていたにもかかわらず、森が日常的にゲリラさえ出没するベネズエラまで出向いて野球をしたのはなぜなのだろう。
森が中日を辞めたのは濃人渉監督との確執が原因である。その後大洋、東京とチームを移るが、東京で再び濃人が監督に就任すると、森は起用されなくなり、それが原因で現役引退に追い込まれていく。
森は殴り書きのメモに「中には素行が悪かった者も居たであろうし、上(首脳陣)にたてついたような者も居たであろう」と東京ドラゴンズの選手を評しているが、それは濃人と自分との対立関係を描いているようでもある。
辻と関根にも監督、コーチと対立しチームの中で浮いていた時期があり、グローバルリーグに参加した選手はほとんどそういう経験の持ち主である。
監督の好き、嫌いで選手が起用されなくなるという理不尽さ、そういうものを森は徹底的に憎んだ。
プロがアマを指導できなくなった遠因。
晩年、力を尽くした元プロ野球選手の高校生・大学生の指導復活については、プロ・アマの断絶を招いた一因は自分にあるのでは、という悔いも手伝っている。
1961年、濃人監督との対立で森をはじめとする中日の野手の多くは身を入れてプレーしなくなってしまった。球団は攻撃陣強化のため社会人の強打者、柳川福三(日本生命)をシーズン途中、強硬に入団させるが、これに社会人球界が反発してプロ野球退団者は今後一切引き受けないという絶縁宣言につながっていく。
自らの監督への反発が一因には違いないが、最も高い技術を持ったプロ野球経験者がプレーだけでなく指導も制限されるという理不尽さに森は相変わらず納得ができなかった。
この制度改革に向けて森は10年以上、日本学生野球協会、NPB(日本野球機構)、日本プロ野球OBクラブと連係し、「研修制度」に結実させていく。選手兼任監督だったグローバルリーグ時代の情熱はこの分野でも発揮されたと言っていいだろう。