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高橋大輔のフィギュア人生とは?
取材ノートに刻まれた10年間の言葉。 

text by

野口美惠

野口美惠Yoshie Noguchi

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photograph byAsami Enomoto/JMPA

posted2014/10/23 10:30

高橋大輔のフィギュア人生とは?取材ノートに刻まれた10年間の言葉。<Number Web> photograph by Asami Enomoto/JMPA

今年2月、ソチ五輪でフリープログラム「ビートルズメドレー」を踊る高橋大輔。これが公式戦での最後の演技となった。

「観客がいたほうが頑張れました」

 次なる目標は'07年に東京で開催される世界選手権だった。

「期待が大きすぎてプレッシャーを感じてしまった」というショートは、ミスがあり3位発進。このままではトリノ五輪の二の舞になると感じた高橋は、自分と一晩向き合った。

「失敗しないぞ、と思っちゃダメだ。行くぞ、と思わなきゃ」

 攻めのスイッチを入れると、フリーではトリプルアクセル2本を成功。日本人男子初の銀メダルを獲得した。

「緊張をうまく利用することをやっと覚えてきている。観客がいたほうが頑張れました」

 大観衆の前で思わず泣き崩れながら、成長を感じていた。

 翌シーズンは、目標に掲げた「4回転2本」を全日本選手権と四大陸選手権で成功させたが、世界選手権は惜しくも4位。その直後、モロゾフがライバルの織田信成も指導することを知り、袂を分かった。

「悪いことは、次に進むために必要なもの」

 ところが、孤独でガムシャラな練習の日々は、身体に負担を与えていた。'08年秋、練習中に右膝のじん帯を損傷。再建手術を受け、1年の休養を余儀なくされた。右脚は他人のような感覚になり、光が見えないリハビリ生活のなか、夜中に家出もした。しかしこの夜を境に、考え方は変わった。

「手術を受けたのは、ちゃんとリハビリをすれば五輪に間に合うと思ったから。ここで腐ったらダメ。悪いことはたいてい、次に進むために必要なものの場合が多い。きっと怪我は必然なんだ」

 そう捉え直すと、肉体改造に着手。関節の可動域を広げ、脚の歪みも直すことで、効率よくスケートが出来る肉体へと変化させたのだ。脂汗をかくようなリハビリに毎日耐えた。

 そして'09年8月のアイスショーで復帰。その言葉は、滑る喜びに満ち溢れていた。

「リハビリをしてから、自分自身の幅を感じられるようになりました。怪我の前はコーチと離れて精神的に苦しかったけれど、今は怪我をしたことがプラスになったと言いきれます」

【次ページ】 「過去の自分に負けてはダメ」

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高橋大輔
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