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12球団にオススメの監督はこの人だ!
タイプ別、指揮官選びの原則とは。
posted2014/09/26 10:40
text by
小関順二Junji Koseki
photograph by
Hideki Sugiyama
球界には「名選手、名監督にあらず」という格言がある。
メジャーリーグで使われていた言葉をそのまま日本球界に持ってきたのだろうが、名選手でなければ監督になるのが難しい日本では、根づいたとは言いがたい。それが近年、変化の兆しを見せている。
まず「リーグ優勝経験者=名監督」の基準を設け、過去の名監督が選手時代、どのような成績を挙げていたのか調べてみることにした。選手としての成功基準は打者=500安打、投手=50勝としたい。
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ロッテの前身となる球団で監督を務めた湯浅禎夫(毎日)、西本幸雄(大毎など)は、リーグ優勝経験監督でありながら選手としては成功基準を満たしていない。つまり「名選手ではなかった名監督」のカテゴリーに入るが、アマチュア時代までの実績を考慮に入れれば、「名選手」と呼ばざるをえない。
湯浅は大正末期、明治大学のエースとして活躍した有名選手で、プロ野球選手としての活動期間はほとんどゼロ。西本もプロ入りしたのは30歳のときで、実働期間は6年しかない。社会人野球の星野組では監督兼一塁手としてプレーし、'49年に都市対抗優勝を果たしているので「名選手ではない」というには無理がある。
1936年から2004年まで、名監督はほぼ名選手だった。
「日本三大監督」と呼ばれた三原脩、水原茂も500安打未満だが、三原は現プロ野球組織のプロ契約選手第1号で、水原は慶大時代の名三塁手にしてプロ野球では'42年のMVPという経歴がすべてを物語っている。プロ野球がもっと早く誕生していれば、ともに球史に名を残す活躍をしていただろう。藤本定義(阪神など)、小西得郎(松竹)、天知俊一(中日)にも同様のことが言える。
それでは、「名選手」でない「名監督」は誰なのか。このことを最初に調べた10年前('04年)の段階では、濃人渉(実働8年、通算436安打)、上田利治(実働3年、通算56安打)、伊原春樹(実働9年、通算189安打)がその代表的存在だった。つまり、1936年のプロ野球誕生から2004年までの69年間で、「名選手ではなかった名監督」はわずか3人しかいなかったことになる。