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坪井智哉、米独立リーグで現役続行!
迷える盟友にイチローがかけた言葉。
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph bySports Graphic Number
posted2014/04/14 11:50
坪井智哉・公式フェイスブックより。「独立リーグの中では最高峰と言われており、メジャーやマイナーとの入れ替えが頻繁に行われているリーグ。少しでも夢に近づく為、このリーグでプレーすることを2年前から望んでいました」と夢へと一歩前進したことが報告されている。
「PL、青学、東芝」のエリートがアメリカを夢見た理由。
PL学園、青山学院大、東芝と、アマチュア時代は全国屈指の名門チームでプレーしてきたことから、阪神の指揮官だった野村克也をはじめ、周囲から「野球エリート」と言われてきた。自身の応援歌でも、その経歴は歌詞になっている。本人は、「エリートのひと言で片づけてほしくない。俺だってしんどい思いをしてプロになったんだ」と心の中で叫び続けていたというが、その当時から、坪井の脳裏には「いずれはアメリカで」という目標があったというのだ。
アメリカ野球への渇望がより強くなったとすれば、日本ハムを戦力外になった'06年になるだろうか。
この時期になると、イチローを筆頭に新庄剛志、田口壮、松井秀喜、松井稼頭央、井口資仁と、日本で実績を残したスター選手が軒並みメジャーへ挑戦するようになった。
'06年は、結果的に合同トライアウトを経て日本ハムと再契約を結ぶこととなったが、この頃から「後悔はしたくない」という信念が坪井に根付き始めたのも事実だった。
「日本でプレーできるならそれはそれでありがたいことですけど、イチローや新庄さんたちがメジャーで活躍している姿とかを見ると、『いつか自分も』と思うようになったし、今後を見据えて、それまで以上に1打席、1球を大事にするようにはなりましたね」
最初のチームは代理人との行き違いであわや契約破棄に。
あくまでアメリカを終着点としながらも、坪井は日本ハム、オリックスで懸命にプレーした。それは、主に代打としてチームに貢献した'07年からの4年間の実績が物語っている。
アメリカへ渡ることを決意したのは'11年。オリックスを戦力外になってからだった。
しかし、目標への船出はいきなり躓いた。
アメリカでのキャリアのスタートは'12年のウインターリーグからだった。ノース・アメリカン・リーグのユマ・スコーピオンズに所属し、実戦形式のトライアウトに参加。そして5月、かつて日本ハムでプレーしたマイク・マーシャルが監督を務める、サンラファエル・パシフィックスから獲得のオファーが届いた。
ところが契約の段階になって、坪井の「希望(の条件)はあるけど、ダメならチームの条件で構わない」といった主張が代理人に理解されず、一度は契約破棄の窮地まで追い込まれてしまう。