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<シリーズ 3.11を越えて> 加藤久 「たったひとりの復興支援」~被災地を駆けた600日~
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byMiki Fukano
posted2013/03/08 06:01
遊ぶ場所がなかった高田と大槌町に芝のグラウンドを!
被災地で初めてとなる芝のグラウンドの完成にも尽力した。
陸前高田市は津波で市街地が消え、1555名もの死者、223名の行方不明者、死亡認定者208名を出すなど、最も被害が大きかった地域のひとつだ。今もスポーツができるグラウンドは、高田小学校の校庭とその下にある縦40m、横20mほどの小さな広場しかない。
「沿岸部で遊ぶ場所がなかったのは、高田と大槌町だけだったんです。高田で場所を探していたら、ボランティア団体である『遠野まごころネット』の多田一彦理事長から『グラウンドを作ったので見てください』と言われて、ひとりで見に行ったんです。杉の木の緑に囲まれて、すごく気持ちがいい。もう、ここしかないって思いましたね」
久さんがピンと来たグラウンドは、気仙町上長部地区にあった。そこに復興支援プロジェクトとして押さえておいた4万株の苗を使おうと考えた。すぐに関係者に連絡し、手続きを取った。6月24日に320人で苗を植え、9月8日、芝のグラウンドが完成した。
9月22日、このグラウンドで初めて早稲田カップというサッカー大会が催されることになった。その前日、準備をしているボランティアの学生たちに久さんは、こう挨拶した。
「このグラウンドはたくさんの人たちによって作り上げられたものです。私は、そこにちょっと化粧をしただけですが、みなさんも最後の仕上げを手伝ってください」
のべ2万人もの人が携わって完成した「鎮魂のグラウンド」。
この地域は、67世帯があり、47世帯が津波の被害に遭い、15名の死者を出した。
グラウンドになった場所は、かつて住宅地だった。津波に襲われた後には、山のような瓦礫と水産加工工場から流れた秋刀魚などが溜まっていた。魚は腐敗し、猛烈な異臭を放った。マスクを3重にし、合間にレモンの皮などを入れて異臭を防いだ。それでも、撤去にあたったボランティアのなかには、気分が悪くなり、嘔吐する人もいたという。
蛆がわき、巨大な蠅とも格闘が続いた。瓦礫と魚の撤去を終えた後、今度は石と木片を拾い、更地にしようとした。だが、トラクターで掘り起こす度に石やら木片が浮かび上がり、6度もやり直した。朝4時から水を撒き、久さんも手押しの草刈り機で6時間掛けて整備した。こうして芝のグラウンドが完成するまで、のべ2万人もの人が携わった。
「鎮魂のグラウンドなんですよ」
久さんは、そう言った。
グラウンドの先には慰霊碑が立っている。学生たちへの言葉には、久さんの沈痛な想いが込められていたのだ。
サッカー大会は秋晴れの中、被災地から8チームが参加して行なわれた。子供たちは芝の上で思い切りサッカーを楽しみ、「将来はサッカー選手になりたい」と、笑顔で夢を語りあった。
「みんな、笑顔を見せるけど、本当は孤独や絶望感を気持ちの奥底に圧し殺しているんだよ。僕は、その子供たちの代わりにはなれない。苦しいよね。だからやれることは何でもする。そうして、ここからJリーグや日本代表に入る選手が出て来てほしいんだよね」