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<シリーズ 3.11を越えて> 加藤久 「たったひとりの復興支援」~被災地を駆けた600日~
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byMiki Fukano
posted2013/03/08 06:01
「3カ月はサッカーをやるという気持ちにならなかった」
「最初の3カ月は、サッカーをやるという気持ちにならなかったんです。被災地では生活そのものが破壊されているので、その生活を建て直さないとサッカーとかスポーツをする状況じゃないと思っていた。
でも、7月ぐらいかな、少し落ち着いて来た頃、復興支援活動をしてもらえないかという打診がJFA(日本サッカー協会)からあったんです。当時は、個人で何かをやるにも限界を感じていたし、岩手や福島に行けていない罪悪感も感じてた。そういう場に行くにもひとりの力じゃ厳しいかなというのがあったんで、それで協会の力を借りようと思ったんです」
2011年10月1日、JFA復興支援特任コーチに就任した。
久さんは、すぐに動いた。
まず、青森県の三沢から福島県の南相馬まで被害の大きかった沿岸部を中心に、レンタカーで1カ月ほどかけて走り回った。
「まず、自分の眼で被害状況を確認したかった。そこで、僕が重視したのは、子供たちの遊ぶ環境がどうなっているかでした。沿岸部の小学校の校庭に仮設住宅があるかどうか、町に子供の遊ぶスペースがあるかどうか。ひとりで見て、走って、記録していった。何キロ走ったのかは覚えていないですけど、これは想像以上にキツかったですね」
「ひとりで被災地を行き来していると何かに押し潰されそうになる」
岩手県から宮城県の沿岸部は、どこに行くにも山間部を通らなければならない。暗い夜道を運転するのは神経を使うし、知らない土地を走るのは意外と疲れるものだ。
例えば、遠野から釜石に行く途中にある笛吹峠は、センターラインのない狭いクネクネ道が続いている。冬には凍結する道を行き来し、廃墟の街と瓦礫の山を見て、ホテルに戻ると気持ちが落ち込んだ。疲れてベッドに横たわるとそのまま意識を失った。この頃、久さんは、泥の中に堕ちる夢をよく見たという。
ある日、遠野で知人と一緒に朝食を摂った時だった。久さんは何気なく、こう呟いた。
「ひとりで被災地を行き来していると何かに押し潰されそうになる。だから、話を聞いてもらったり、一緒にご飯を食べてくれる人がいるだけで、すごく救われるんだよ」
支援する人間だって、スーパーマンのように強いわけではない。被災した人とは異なる孤独や痛みを抱え、無慈悲な現実と向き合い、頑張っているのだ。