オリンピックへの道BACK NUMBER
金メダル後も挑戦し続けた里谷多英。
引退宣言までの競技人生を振り返る。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byKoji Aoki/AFLO SPORT
posted2013/01/22 10:30
1994年リレハンメル五輪にて。当時まだ里谷は17歳。この時の女子モーグルでの成績は11位に終わっている。その後、日本人女性選手初となる冬季五輪金メダル受賞など輝かしい功績を残しながら、長きにわたって日本モーグル界を牽引してきた。
度重なる引退の条件をクリアし続けていった里谷。
そして3月の全日本選手権への出場を決意する。自分の意志を伝えると、連盟からはこう言われた。
「3位以内に入らなければ次のシーズンのナショナルチームには残せない」
それに応えるように、里谷は優勝を遂げる。
といって、カテゴリーが一番高いワールドカップの代表に戻れたわけではなかった。
翌シーズンとなる'08-'09年は、その下のカテゴリーの北米大会からの参戦となった。
「3位以内に入らなければワールドカップには上がれない」
ワールドカップに出られなければそのシーズンの世界選手権代表がなくなり、'10年のバンクーバー五輪の可能性も消える。
この状況で3位となり、ワールドカップに復帰。世界選手権でも9位の結果を残す。ときに腰の痛みなどに苦しむこともあったが、いくつものテストをクリアして、ようやくつかんだのが5度目のオリンピックであった。
ベテランになるにしたがって厳しくなっていった世間の目。
迎えたバンクーバー五輪には、「メダルを獲りたい」と臨んだ。メダルで競技人生の集大成を飾ろうというのではなかった。当時の心境を、のちにこう語った。
「スキーを続けるために欲しかったんですね。そうじゃないと好きな競技ができないんじゃないかって」
引退を翻したあと、自分にとってスキーがどれだけ大切なものなのか気づいた、もっとうまくなりたいと思った、とも言った。一度は引退勧告を出されたように、ベテランになればなるほど、周囲の視線は厳しくなる。好きなスキーを続けるには結果を出すしかないと考えていた。だから、メダルが欲しかった。
そんな思いで臨んだバンクーバーで、スタートから、思い切りのいい滑りを見せる。それは見る者に強い印象を与え、「もしかしたら」と思わせるものだった。だが、エアの失敗が響き、19位に終わった。