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金メダル後も挑戦し続けた里谷多英。
引退宣言までの競技人生を振り返る。 

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松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

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photograph byKoji Aoki/AFLO SPORT

posted2013/01/22 10:30

金メダル後も挑戦し続けた里谷多英。引退宣言までの競技人生を振り返る。<Number Web> photograph by Koji Aoki/AFLO SPORT

1994年リレハンメル五輪にて。当時まだ里谷は17歳。この時の女子モーグルでの成績は11位に終わっている。その後、日本人女性選手初となる冬季五輪金メダル受賞など輝かしい功績を残しながら、長きにわたって日本モーグル界を牽引してきた。

 1月18日、フリースタイルスキー・モーグルの里谷多英が引退を表明した。

 1998年の長野五輪で、冬季競技では日本女子初となる金メダルを、続く'02年のソルトレイクシティ五輪でも銅メダルを獲得。

 オリンピックへの出場は、'94年のリレハンメル五輪を皮切りに、'10年のバンクーバーまで計5度。出場回数は岡崎朋美と並び、日本女子で最多タイとなる。

 6度目となるソチ五輪を目指していたが、今シーズンは昨年12月に開幕したワールドカップ日本代表からもれ、北米の大会に出場。成績次第で年明けからのワールドカップ代表への昇格が可能だったが、3戦に出場し29位、棄権、19位に終わった。ワールドカップ復帰がならなかったことで引退を決意するに至った。

 日本のウインタースポーツに名を残す活躍をしてきた里谷は、ソルトレイクシティ五輪の後は、華やかな結果が少なかったこともあって、脚光を浴びることは少なかった。'05年には、泥酔騒動により同年の世界選手権出場辞退を余儀なくされたし、15位に終わったトリノ五輪のあとには、全日本スキー連盟から引退勧告に近い言葉が発せられることもあった。トリノの時点で29歳であったことを考えれば、一線を退く選択をしたとしても不思議はなかった。

 それでも現役にこだわり続けて、今日まで滑り続けた理由はどこにあったのか。

 あらためてその過程をたどりたい。

2008年冬――すでに里谷は引退しようと考えていた。

 常に競技を継続してきたように見える里谷は、一度は引退を考えたこともあった。トリノから2年後、'08年冬のことだ。

 里谷は、その前から首や腰に痛みを抱え、思うように滑れない時期が続いていた。大会を欠場することも増え、「スキーを離れてもいいかな」と考えるようになっていた。'08年2月、猪苗代で行なわれたワールドカップを最後にしようとひそかに決めていた。

 こうして挑んだ大会で、里谷は予選落ちに終わる。

 その大会で、気持ちが変わることになった。

 ひとつは、本来の自分とはほど遠い滑りに、「こんなぼろぼろでやめたくない」と悔しさがよみがえったことだった。

 もうひとつは、上村愛子の優勝にあった。

 上村の滑りを見て、「自分は何やってるんだろう。これで終わりにするのはいやだ」と感じたのだ。

【次ページ】 度重なる引退の条件をクリアし続けていった里谷。

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里谷多英
上村愛子

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