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<ナンバーW杯傑作選/'06年7月掲載> ついに生まれなかった闘争心。 ~ドイツW杯をデータで徹底分析~
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byShinji Akagi/Koji Takano(JMPA)
posted2010/05/28 10:30
日本のベンチは気楽な観戦者の集まりのようだった。
彼らは忘れていたのだ。昨年のコンフェデ杯で、なぜブラジルと接戦を演じることができたのかを。
2-2というスコアは、プレスがきかない、数的優位さえ保てない局面を、個人の頑張りで補った結果である。相手よりも一歩先に動く、チーム内の誰よりも汗をかこうとするメンタリティが、組織を切り崩されても連動性を保つことにつながっていたのだ。
「戦う」という言葉の意味は、大会直前に突きつけられていた。6月4日のマルタ戦に思いを巡らせれば、自ら勝利を放棄できるはずがない。マルタのがむしゃらさに苦しめられた記憶を財産にしていれば、勝負の本質を理解できたはずである。
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クロアチア戦の終盤が忘れられない。相手のシュートがワクを逸れると、川口能活は一刻も早く試合を再開しようとした。
このとき彼は、絶望的な気分を味わったに違いない。同じ気持ちを持った選手が、フィールドに中田英しかいなかったからだ。
ベンチも戦っていなかった。ブラジルにリードされているにもかかわらず、笑みをこぼしている選手がいたのには冷たい驚きを覚えた。普通なら、譲れない一戦のベンチは相手のプレーや判定にすぐさま反応し、控え選手がテクニカルエリアへ飛び出していくものだ。
しかし、日本のベンチは気楽な観戦者の集まりのようだった。ジーコに冷遇されてやる気を削がれたと大会後に言うなら、最初から代表を辞退すればいい。
日本代表の責任感はこの程度のものだったのか。
私がこのチームに不安より可能性を感じたのは、勝利に対する貪欲さを見てきたからだった。フィールドで戦うのは選手であり、監督ではない。だから、ピンポイントで短いアドバイスをするジーコのスタンスは、このチームに悪くないと思っていた。'02年10月以降の月日で、選手たちに考える力が備わってきたとも理解していた。グループリーグで敗退するにしても、チームのポテンシャルを出し切ったうえのことと予想していた。
だから私は、ジーコより選手に失望している。あなたたちの経験は、そんなにも役に立たないものだったのか。日本代表の責任感は、暑さにあっけなく屈するほど薄っぺらいものだったのか。最終的には今回も、監督に勝敗を委ねたのか。ジーコの采配は問われるべきだが、選手が精根尽き果てるまで戦ったとは到底思えない。決勝トーナメントで壮絶なプライドのぶつかり合いを目撃してからは、そうした思いをさらに強くしている。
W杯は特別な舞台だが、だからといってスーパープレーを連発できるわけではない。日常のレベルをきちんと大会に持ち込んだチームが勝利をつかみ、勝利をつかむことによって短期間で目ざましい進化を遂げるのである。
だとすれば、責任は我々にもある。Jリーグに厳しさが足りないから、選手を取り巻く環境が生温いから、我々の代表は大一番で萎縮してしまったのだろう。いきなり巨大な責任を背負わされたと感じ、いつもの自分を見失ってしまったのだと思う。
日本代表を変えたければ、まず自分たちが変わらなければならない。Jリーグだからという理由で、物足りなさを安易に受け入れてはいけない。いまこの瞬間の思いを、どれだけの人間が忘れずにいられるか。日本サッカーの未来は、新監督や選手だけでなく私たちにもかかっていると思う。