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<日本競歩を牽引する2人> 山崎勇喜&森岡紘一朗 「競い、歩く、共に」
text by
折山淑美Toshimi Oriyama
photograph byAsami Enomoto
posted2012/07/15 08:01
北京五輪後にフォーム改良もケガに苦しむ山崎。
メダルを狙い、気負った歩きで失格になったことから、大会後フォーム改良に取り組んだ。だが、これまでと違った動きを始めたことによって体に大きな負担がかかり始めた。
「振り返ってみれば、ベルリンは速く歩く事だけを追求して仕上げたので、失格になっても当然の歩きでした。ビデオで自分の歩きを分析していたけど、僕自身、競歩の歩型に対する知識が浅かったこともあります。それでフォームの改良に取り組んだけど秋には左太股の裏を肉離れして、年が明けて治ったかなと思ったら、今度は右足首を痛めたんです」
それでも日本選手権では優勝、5月には準備期間もほとんど無いままでメキシコのW杯で50kmに出場すると、日本人過去最高の6位という好成績を残せた。
帰国後、今度は右膝が痛みだした。それまではケガをしてもすぐに治っており、山崎はケガを深刻には捉えなかった。だが秋以降もレースで失格が続き、今回の故障が尋常ではない事に気がついた。
「動かなければ痛くないし、ジョグも普通にできた。でも、膝を伸ばそうとすると痛みが出るんです。だからレースでも自分の意識の中ではしっかり膝を伸ばしているつもりでも、体が無意識のうちにかばって伸びていない。それで膝が曲がる『ベントニー』をとられて失格になることが続いたんです」
膝全体が腫れてしまい、自分でもどこが痛いのかわからないような状態になった。医師には脂肪帯炎症と診断されたが、年が明けて腫れが引いても痛みが消えず、再び診断を受けると半月板損傷といわれた。
「自分でもどうしていいかわからなかったし、復帰できるかどうかもわからなかった」
膝への不安を抱えながら全日本で優勝、第一線への復帰を果たす。
この時期、日大長距離部門の監督に就任することになった鈴木との別離もあった。山崎は引き続き指導を受けたいという希望も持っていたが、周囲の勧めや、将来のことも考え、昨春には自衛隊体育学校入りを決めた。
不安だらけで迎えた新天地での競技生活。リハビリ期間は、国立スポーツ科学センターで、復帰を目指して頑張っている他種目の選手たちとの励まし合いで乗り切り、6月からは「また爆発するかもしれない」という膝への不安を抱えながらも練習を始めた。
そして、10月の全日本50km競歩では3時間44分03秒のタイムで優勝、競歩界の牽引車が第一線に復帰を果たした。