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<日本競歩を牽引する2人> 山崎勇喜&森岡紘一朗 「競い、歩く、共に」 

text by

折山淑美

折山淑美Toshimi Oriyama

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photograph byAsami Enomoto

posted2012/07/15 08:01

<日本競歩を牽引する2人> 山崎勇喜&森岡紘一朗 「競い、歩く、共に」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

20kmにこだわっていた森岡が、50kmに挑戦した理由。

 山崎が苦しんでいる間に、順天堂大の後輩でもある森岡は50kmという距離への自信を着実に深めていた。

 '07年の大阪世界選手権の20kmで11位になっていた森岡は、20kmへのこだわりを持っていた。周囲から「スピードがない日本人が世界と戦うのは難しい」と言われる20kmで、結果を出してみたいという反骨心もあった。

「学生の頃も何度か50kmに挑戦をしようと思ったけど、長い距離のトレーニングは苦手でしたし、距離への恐怖心もあって、一歩を踏み出す勇気がなかったんです」

 鈴木コーチが公開した山崎の練習メニューをみて、想像を絶する量と質に愕然としたこともある。共に合宿をした際に、20km以上続く急勾配の山道を登り切ったうえで、なおかつ平地20kmを歩くという練習を、平然とこなしていく山崎をみて、「ここまではとてもできない!」と舌を巻いたこともある。

 だが心の中では、世界の舞台で入賞する山崎に羨ましさを感じていた。

「キッカケは北京五輪の20kmでした。前年の大阪で11位だったので今度こそ入賞だと意気込んでいたんです。でも入賞できず、さらに50kmが得意の山崎さんにも負けた。本当に悔しくて、何としても世界で戦えるようになりたい、そのためには50kmだ、と思ったんです」

 山崎は以前から、そんな森岡を「自分と同じで乳酸が溜まりにくい、50kmに向いている体質だ」と評価し、将来のライバル候補にプレッシャーをかけていたという。

「森岡なら50kmに挑戦すればすぐに3時間45分は出すと予想してました。だから順大で一緒にやっている時から『お前は50kmに来なくていいからな』と言ってたんです(笑)」

 森岡も当時のことを笑って振り返る。

「練習が大変だとよく言われたから、遠回しにやるなといってるんだろうな、と」

ケガの山崎に代わって出場したアジア大会で森岡が掴んだ“実感”。

 森岡が50kmを本格的に始めたとき、まず意識したのは山崎の言う3時間45分というタイムだった。それをクリアすることが、世界で入賞を狙う第一条件だ、と。

 翌'09年のベルリン世界選手権で、山崎が世界と闘ってきた50kmという場に初めて足を踏み入れたが、結果は18位に終わる。

「実は、ベルリン前はまだ20kmの練習に重点を置いていたんです。50km一本に絞りきれていなかった。レース後も18位という厳しい結果だったので、20km、50km、どちらに力を入れるかかなり迷いました。でも翌年にはアジア大会があり、ロンドンで勝負するためにはそこで結果を残しておくしかない状況だったので、50km一本に絞ろうと心を決めたんです」

 山崎も代表に名を連ねていたアジア大会、男子競歩は「金メダル有望種目」とみられていた。だが山崎のケガによる出場辞退により、その責は森岡にかけられた。

 レースは同年のW杯で入賞をしていた格上の中国人選手2人との勝負になった。森岡は途中で強烈なスパートをされたが、42km過ぎまで2人に食らいつき、一度は離されたものの48kmからのラスト2kmを8分29秒にペースアップ。1分以上もあった先頭との差を37秒に、2位との差を7秒につめて3位になった。

「海外で初めて自己新を出す事もできたし、収穫の多いレースでしたね。結果的には競り負けたけど2位の選手とは差がなかったから、50kmで世界とある程度は戦える、上位を目指せるという実感が持てました」

 そして翌年の日本選手権50km、山崎が言っていた3時間45分を切る、3時間44分45秒というタイムで森岡は初優勝する。

【次ページ】 優勝した森岡が目にした山崎の涙とプライド。

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