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<日本競歩を牽引する2人> 山崎勇喜&森岡紘一朗 「競い、歩く、共に」
text by
折山淑美Toshimi Oriyama
photograph byAsami Enomoto
posted2012/07/15 08:01
7月27日の五輪開幕に向け、このシリーズを全文公開していきます!
今回は競歩男子日本代表、山崎勇喜と森岡紘一朗。
順天堂大時代の先輩と後輩は、それぞれの試練といかに向き合ったのか。
互いを強烈に意識しながら切磋琢磨する2人を追った、
Number801号(2012年4月5日発売)掲載のライバル物語――。
昨年9月のテグ世界選手権、男子50km競歩。
レース前半、ペースを抑えていた森岡紘一朗は、後半になると徐々に順位を上げ、38km過ぎで8位につけた。さらにそこから落ちてきた選手を交わして42km手前で6位になると、そのままゴール。「日本人最上位で入賞」という基準をクリアして、早々とロンドン五輪代表の内定を決めた。
テレビ画面に映る後輩の姿を、涙を流しながら見つめている男がいた。ケガの影響で出場が叶わなかった山崎勇喜だ。
山崎は大会前から「森岡の実力だったら入賞する」と予想はしていた。だが「自分だったら違うレース展開をしていたし、もっと上位へいけたはず」という思いが心の中に沸きあがり、気がつくと涙がこぼれていた。
「あの時は辛かった。でも実は、練習すらできずに現場で観ているだけだった昨年4月の日本選手権の方がもっと辛かったんです。レース中から『自分なら……』と思うと歯がゆくて、悔しくて……。生き地獄のような感じで、そこでも泣きました。森岡のゴールを間近で見たときはボロボロと涙が流れて。ゴール後に、森岡は僕を見つけて会釈をしてくれたんです。僕のことを気づかう彼の気持ちは嬉しかったんですけど、やっぱり素直になれなくて顔を背けてしまって」
「マラソンのノウハウを競歩に導入する」
過去も世界選手権で何度か入賞しながらも、マイナー競技の域を脱する事ができなかった競歩。少しずつ注目されだしたのは'06年ごろから陸連が「マラソンと同じように世界で入賞の可能性がある」と強化を始めたからだ。
強化の試みのひとつが「マラソンのノウハウを競歩に導入する」というもので、'93年世界選手権で優勝した浅利純子などを育てた鈴木従道氏にコーチ就任の依頼をした。
選手としてのターゲットは、50kmで3時間43分38秒の日本記録を出しながらも、斎藤和夫コーチの急逝で指導者が不在という状況に陥っていた山崎だった。
鈴木の指導方針は、それまでの競歩界では想像できなかったほどの質の高さと量の多さを選手に求めるだけでなく、普段の生活態度や競技へ対する意識も一変させて厳しく管理するものだった。
その指導の下、山崎は'07年の大阪世界選手権こそ役員の不手際で「コースを間違う」という悲劇に襲われたものの、'08年の北京五輪では7位入賞と結果を出した。そして'09年には同年世界ランキング4位となる3時間40分12秒まで一気に記録を伸ばし、世界の舞台でメダルを争えるところまで上り詰めたのだ。
だが、同年8月のベルリン世界選手権から歯車が狂い始める。