自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
京急線とともに旧東海道を下りつつ、
古い“地名”に思いを馳せてみた。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2012/05/30 06:00
江戸における交通の要所だった品川宿。最近では羽田空港の国際化にともなって、世界に開かれた東京の玄関口としての機能も持つようになり、改めて活気づいてきています。
マッチョな高度成長期野郎! 京急線の男らしさ。
大森海岸駅近くでちょいと踏切を渡ってみよう。そこで、おや? と思う。踏切にある線路が一本しかない。京急線は単線なのか? と思いきや、上空を見ると分かる。
このあたり、京急は上下線がまさに上下に分かれているのだ。上り品川行きは高架で、下り横浜行きは下。この男らしい(?)思い切り。
ふーん、けっこう悪くないかも。というのは、踏切を渡る距離も、赤信号を待つ時間も単純計算で半分になるからね。
それにしても京急という路線は、なにか雰囲気が男っぽい。なんだろう、駅の佇まいも昭和の高度成長、というより、第二次産業、京浜工業地帯、というテイストが濃厚だ。
駅名のフォントも、なにやら「科学特捜隊(ウルトラマン)」だの「ショッカー(仮面ライダー)」だのを彷彿とさせるし、深い赤にベタッと塗られた車体色(そのせいで電車の鉄板が分厚く感じるぞ)も、そのまま“ジャパン・アズ・ナンバーワン”な時代の産物に思える。
あと、これは実際に乗ってみないと分からないが、京急・快特(快速特急)の、あの暴力的な速さ。
本当は平行するJRとさほど変わらないらしいが、カーブが多くて、加減速が多いことからか、もうJRの3倍程度スピードを出しているように感じられてしまう。実際に、この京急快特、スピードファンにはエラく評価されていて「関東最強」とか「喧嘩上等」とか、なにやら、ちょっと暴走族っぽく、マッチョに讃える人が多いそうな。
というわけで、その快特とは関係なく、ガードをくぐりつつ(お、味わい深いうなぎ屋が)、また本線に戻りつつ(うわお、やたらとデカい「サイクルベースあさひ」があるなぁ、ほとんどクルマのディーラーだ)、やがて梅屋敷という駅が見えてくる。
梅屋敷……。ヘンな名前。
「梅屋敷」という地名から想起するのは……別れの宴である。
この奇妙な駅名「梅屋敷」というのは、江戸期にここに住んでいたお大尽・山本久三郎さんが、自分の屋敷に梅の木を植えた庭園を造り、そこで茶屋を営んだことからついた名前だという。
屋敷という語感のレトロさから、我々はすぐに「お化け屋敷」だの「番町皿屋敷」だのを思い浮かべてしまうが、そういうおどろおどろしいものは、ここにはない。
実は梅屋敷、江戸時代には「別れの杯を手向けるところ」として有名だったのだそうだ。
かつて、西国より来し諸藩の藩士が、いよいよ国に帰る際、東海道をここまで見送りに来たのだという。
最初は、品川のすぐ近く、泉岳寺脇に集い、料亭「万安」で送別の宴を催し、酒を飲みながら、尽きせぬ名残を惜しんだ。
で、翌朝になると、仲間たち数人と連れだって、道々歩きながら、道中の安全を願いながら、鮫洲にまでやってくる。すると、今度は鮫洲の「川崎屋」に上がり込み、あれま、ここでも酒宴となる。
で、さらに翌日、もっとも仲のいい数人は、さらに蒲田の「梅屋敷」まで送って行き、そこで最後の酒宴が開かれるという首尾だ。
ここから先に行くと、もう多摩川で、渡ればお江戸ではなくなる。つまり、ここが最後の場なのだ。
行き先は浪花か伊予か、はたまた薩摩か長州か。いずれにせよ、当時の交通事情と人々の平均寿命に鑑みると、この梅屋敷の別れは、今生の別れになる可能性は大だった。
「名残は尽きぬが、いつまでこうしていても詮無きこと。達者でな」
「貴公こそ、酒もほどほどになされよ」
「わははは、貴公こそ」
「ではさらば。道中ゆめゆめご油断めさるな」
「さらば」
というような会話が交わされたことであろうて。