自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
北区赤羽で昭和の哀愁に萌える。
団地から、日本の未来が見えてきた。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2011/10/28 06:00
故郷である宮崎県日南市の懐かしい団地にて。25年ぶりにわざわざ訪ねたおり、記念に撮影したワンカット
かつての高島平が背負ったネガティブイメージとは?
大規模スーパー(高島平は東武ストアだ)が団地内にあって、幼稚園から、小学校、中学校、高校、と、すべてが近所にあった。もちろん職住は地下鉄でつながれている。児童公園だってきっちりと整備され、生活のすべてが(あの頃の基準で)保証されているように見えた。
若い人にとっては、現在の高島平からは想像できないかもしれないけれど、30年以上前のあの頃、たしかに「ザ・高島平」は、光り輝いていたのである。
今だって、そんなに古びちゃいない。
サドルの上から見る風景だって、それなりに活気があって、静謐というわけではないよ。高齢化は確かに進んだものの、桐ヶ丘や赤羽台とはレベルが違う。今だってちゃんと「現役感」がある。
ただ「未来に伸びる高層団地」というイメージでは、やはり、ないね。見上げると、いくぶん素っ気ないテクスチャーの高層団地は「これぞまさに昭和」でもある。
思えば、この高島平、全国区の知名度を手に入れたのは、必ずしも「いいイメージ」ばかりではなかった。
1977年4月に「(行方不明になった)ママは地獄に堕ちてしまえ」という遺書を携えた父子3人が、この団地で投身自殺をした。当時の流行語「蒸発」とも相まって、この事件をマスメディアはセンセーショナルに報じ、ここより一躍「高島平」の名は全国区になるのである。
高島平での自殺は激減したが、全国の自殺者は'80年の1.5倍に。
'70年代の後半となっても、この高島平には、投身自殺をするために訪れる人が引きも切らなかった。
確かにまだ都内に高層団地は珍しかった。
その結果、この高層アパート群は「自殺の名所」というありがたくない異名を戴くことになる。あたかも松本清張のベストセラー小説『波の塔』によって、富士樹海が同じく自殺の名所になったごとく。
'80年代に入ってからも、その数は減らなかった。いや、むしろ増えたといっていい。
その数、10年間で133人。1カ月に1度以上、自殺騒ぎが起きているという計算となった。
だからというべきか、現在、この高層アパートに登ってみると、開放廊下には鉄柵が設置されるなど、飛び降り防止のための努力がなされていることが分かる。
その結果、'90年に入ると、高島平での投身自殺は激減したそうだ。方法のバリエーションが増えたこととも無関係ではないのだろう(鶴見済著『完全自殺マニュアル』の大ヒットが'93年)。次第にこの団地を「自殺の名所」の冠で思い出す人は少なくなった。
だがね、その1980年代。
たとえば1980年の1年を例にとると、日本全国の自殺者総数が約2万1000人。現在の3分の2である。
ちなみに交通事故の死亡者でいうなら、当時は8760人。現在の倍近い。今では交通事故で死ぬ人は減り、年間でその6.5倍の人間が自らの命を絶っている計算になるという。
昭和? 高島平?
もっととんでもない事態が現在起きているのだ。自殺に関して言うと、平成の日本は完全に“異常”の域に入りつつある。