自転車ツーキニストのTOKYOルート24BACK NUMBER
北区赤羽で昭和の哀愁に萌える。
団地から、日本の未来が見えてきた。
text by
疋田智Satoshi Hikita
photograph bySatoshi Hikita
posted2011/10/28 06:00
故郷である宮崎県日南市の懐かしい団地にて。25年ぶりにわざわざ訪ねたおり、記念に撮影したワンカット
当時の豊かでモダンな生活とはどういうものだったか?
あちこちを眺めながら走っていくと、わおー、給水塔だよ。
こうした低層アパートには必須の施設。こうして水をいったん高いところにあげて水圧を稼がないと、全戸に勢いよく水は出ないからね。特に、5階、4階などは、これがないと水圧が足りなくて困ったもんだ。
その給水塔が、団地ならではの奇妙な美しさを生んでいる。
階段前にナニゲなく置かれたベンチ。
錆びて、くすんで、そのまま朽ちていこうとしている。背もたれに書かれた「雪印牛乳」の文字。「明治牛乳」「森永牛乳」のバージョンもあったぞ。そうだなぁ。あの頃、多くの家庭は新聞配達とセットのような形で、牛乳配達を頼んでいたもんだ。
健康のため? そう。でも、それ以上に牛乳を配達してもらうというのが、豊かでモダンだったんだ。
今では、牛乳どころか新聞の配達さえも危機的になっているのは、ご承知の通り。
壁に注目してみると、ちょっと新しい金属パイプが這っている。ここだけは光沢を保ってる。
何かというと、これが給湯システム。以前は各戸のお風呂には「バランス釜」ってヤツがあって、そのお尻が四角く壁から覗いていたもんだ。
その後、空焚きの危険、使い勝手の問題などがあって、バランス釜は次第に廃れていったんだけど、あれにしたって、当時は最先端のモダンシステムだった。なぜなら、その前は自宅に「内風呂」なんてなかったから。みんな「銭湯」通いだったのだ。
工場群と、そこで働く人たちが暮らしていた大規模団地。
さて、桐ヶ丘団地を抜けて、今度は浮間の方に走っていこう。
荒川と、その支流の間に中州のように存在する浮間。
東京都北区に所属するが、時が時なら埼玉県に編入されていたかもしれない……てな話が、あったとか、なかったとか。要するに荒川の本流がどちらを流れているか、で、決まったのだそうだね。
橋を渡ると、水面を越えてくる風が汗をかいた身体に気持ちいい。荒川沿いには「水上バス」の駅がある。
そう、このあたりは、実は水運が便利だ。船を使って大量に物資が送れる。だからこそ、この浮間にはいくつもの小さな工場、倉庫などが林立した。
今でも多いね。
浮間に限らず、この周辺には「大日本インキ」、「日本金属」、体重計の「タニタ」、「ナカバヤシ」(フエルアルバムだ)など、聞けば「ああ」と思うような渋い企業が多い。また大小数々の印刷工場も多いね。あとタクシー会社と、クルマの整備工場が多数ある。
こういうテイストの、街の佇まい、雰囲気は、やはり昭和だ。
こうして昭和の大規模団地(赤羽台、桐ヶ丘)の近くに、こうした工場地域があるというのは、決して偶然ではない。
夕方5時に工場のサイレンが鳴る。工場からバスが出る。赤羽や浮間舟渡駅行きのバス、あるいは、桐ヶ丘、赤羽台団地に向けて、たくさんのお父さんたちは帰っていったのだ。
皆が同じように、適当に貧しくて、適当に豊かだった時代。こつこつと貯めたお金で、いつかはクルマ、いつかは一戸建てと思った。道も街並みも次第に整備されてくる。息子は大学へ行かせよう、今日より望ましい明日は必ずやってきた。