バンクーバー通信BACK NUMBER
この13年間「タフでした」。
上村愛子、闘い続けることの意味。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byTakuya Sugiyama/JMPA
posted2010/02/28 08:00
上村愛子は言った。
「(十数年戦うことは)タフでしたね」
第一線で長く競技生活を続けることの苦しさと価値の大きさ。
それは、バンクーバー五輪で、あらためて気づかされたことだ。
今大会には、日本代表として長年活躍してきた選手が数多く出場していた。6回を数える葛西紀明、5回目の岡崎朋美、里谷多英……。
そして4度目の上村愛子もまた、初めてのオリンピック出場となった長野五輪を基点に考えても、13年にわたって世界で戦ってきたことになる。
足跡をたどれば、いつも、課題を見つけては、克服するために戦っていた。
そんな印象がある。
長野はお祭り、ソルトレイクで弱さを知り、トリノで泣いた。
初めて出場した長野五輪こそ、地元開催、7位入賞を果たしたこともあって、「ただただ楽しい、お祭りのような大会」だった。
だが、国際大会で活躍するようになると、状況は変わった。周囲はオリンピックでのメダルを期待し、自身でも結果を意識するようになった。
2002年のソルトレイクシティ五輪は、そうした状況での大会だった。
結果は6位。
感じたのは、「自分の弱さ」だった。
大会前からのしかかる重圧によって自分の力を出し切れなかった、そう感じたのだ。
だから、弱い自分を克服することが、次への課題になった。
'06年のトリノ五輪は、女子では初めての3Dのエアとともに挑む。
自信を持つための武器がほしい。その答えが、当時、男子のものだと思われていた3Dエアの習得だった。
そのトリノでは5位。
まだ何かが足りなかった。
W杯と世界選手権の2冠を制し、バンクーバーに臨んだが……。
その直後、日本のチーフコーチに、ヤンネ・ラハテラが就任する。彼の現役時代には、その滑りに、上村をはじめ世界中の選手が憧れた存在だった。
それは運命的な出会いだったかもしれない。
上村が理想として思い描いていた滑りを、体現するチャンスが与えられたのだ。
ラハテラの指導のかいあって、屈指のターン技術を身につけると、'07-'08年シーズンは、ワールドカップで総合優勝。
'09年は世界選手権2冠。
こうしてバンクーバー五輪を迎え、そして、4位の結果を残した。