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銀行窓口で「口座にお金がありません」と言われ…人気絶頂“巨人のドラ4指名を拒否→社会人野球でMVP”男の現在地「野球漬けでもいい。ただね…」
posted2025/04/21 11:02

63歳になった瀬戸山満年。80年ドラフトで4位指名を受けた巨人を入団拒否し、その後社会人野球で活躍。破天荒な球歴を送った男の現在は?
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田口元義Genki Taguchi
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Genki Taguchi
今とは比べ物にならない人気を誇り、まさに「球界の盟主」だった昭和の時代の巨人軍。人気絶頂だった1980年のドラフトで1位指名されたのは、“若大将”こと原辰徳だった。だが、同じドラフトで4位指名を受けた瀬戸山満年は、周囲の予想に反して「指名拒否」の意向を示すことになる。その後は社会人野球でも活躍し、都市対抗野球ではMVPにも輝いた。そんな瀬戸山の63歳になった現在は――?《NumberWebインタビュー全3回の3回目/最初から読む》
瀬戸山満年がプリンスホテルでプレーするようになって、9年が経とうとしていた。
同期入団で実力ある選手のほとんどがプロへと巣立っていく。キャッチャーとしてバッテリーを組んでいた川村一明に高山郁夫。野手では藤井康雄、1988年のソウルオリンピックで主軸を担った中島輝士も、同年のドラフトで日本ハムから1位指名を受けた。
数年前、西武の管理部長だった根本陸夫に現実を突きつけられプロへの望みを断っていた瀬戸山はこの時、プレーヤーとしての限界を悟り始めていた。長年にわたり自慢の強肩を振り続けていたことで、ひじに痛みが走るようになっていたのである。
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その分、頭は冴え渡っていた。
当時の社会人野球は金属バットを使用しており、打高投低の時代だった。ピッチャーはいかにバッターの的を外せるかと変化球を駆使する傾向にあり、キャッチャーの瀬戸山も「ホームランとフォアボールだけは出さないように」と細心の注意を払いリードしていた。
集大成となった89年の都市対抗野球
89年の都市対抗野球は9年目を迎えた瀬戸山にとって、集大成のような大会である。
プロを断念する一因となったバッティングで快音を響かせる。扇の要としての頭脳を生かして相手ピッチャーの配球や癖を読み、狙い球を的確に弾き返す。本職のリード面でも奮起する。前年のソウルオリンピック代表で西武に入団した石井丈裕の穴をカバーするように、主戦の橋本武広らを導いた。