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「寮の食事は冷えていて…」青学大で“クビ寸前”だった原晋監督「サポート体制は未熟でした」原チルドレン1期生が語る“弱かった青学大”のリアル
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byTakashi Shimizu
posted2025/01/14 11:00
青山学院大学を“箱根駅伝の覇者”へと育てあげた原晋監督。“原チルドレン1期生”のOBが語る黎明期の青学大の実情とは
未熟なサポート体制「寮の食事は冷えていて…」
2004年春の入学。横田さんはいわゆる、原チルドレンの1期生である。後の名将はこの年、中国電力を辞めて、青学大の新たな陸上部監督に就任したばかりだった。3年間の嘱託契約で、目標は箱根の予選会を通ること。まだ原監督が何者でもなかった時代、まさに青学大の黎明期を一緒に駆け抜けた同志でもある。
横田さんの大学4年間とは、いったいどのようなものだったのか。記憶をたどると、古き良き青春時代の思い出がよみがえってくる。
「僕らの入学と同時に寮ができたんですよ。最近リフォームしたあの寮です。元々どこかの社員寮だったらしくて、当時から食堂もありました。基本的には今と変わらないスタイルでしたね。監督も住み込みで、奥さんの美穂さんもいました。先輩たちが各年代に4、5人いて、僕らの代は同級生を含めて8人が入部したんです。
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監督の印象ですか? ひと言で言えば、おしゃべり好きな兄貴分。まだ監督も30代で若かったので、選手たちとの距離は近かったです。『お前、彼女おるんか』ってあの感じ(笑)。ただ、指導に関しては厳しかったですね。やはり選手も監督も成熟していなかったので、上からこうだってやらせるところはありました。先輩たちの中には緩い感覚でやっている人もいたので、手綱を引くやり方も仕方なかったんでしょうね」
監督の著書などでも触れられているが、この当時は茶髪にピアスの「チャラい部員」もいた。初めて接する大学生を相手にどんな指導が有効なのか、監督も試行錯誤を繰り返していたのだろう。当時はまだ専用のグラウンドもなく、横田さんたちは自転車で30分かけて近くの競技場まで足を運んでいたという。
「サポート体制は未熟でした。今みたいに差し入れなんてどこからも届かないし、靴なんかももちろん自腹で、お金はなかったです。寮の食事は主にケータリングで、冷えていてあまり美味しくなかった記憶があります。月に1度くらい、監督や美穂さんも交えてみんなでお好み焼きパーティーをやるんだけど、それが楽しみでした」