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「非合法ギャンブルで一晩2000万円を溶かし…」日本プロレスから追放された“伝説のレスラー”豊登とは何者か?「“親方と不仲説”…23歳で相撲界から消えた」―2024下半期読まれた記事
posted2024/12/26 17:00
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph by
NIKKAN SPORTS
2024年の期間内(対象:2024年9月~2024年12月)まで、NumberWebで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。格闘技部門の第1位は、こちら!(初公開日 2024年9月11日/肩書などはすべて当時)。
5月末に刊行した拙著『力道山未亡人』(小学館)では、主人公・田中敬子の周辺人物として、複数の著名なプロレスラーが登場する。亡夫である力道山光浩はもちろん、弟子であるアントニオ猪木、アパートのオーナーと住人の間柄にあったジャイアント馬場、亡夫と先妻との間の子である百田義浩と光雄の兄弟、敬子との約束を反古にしながら、窮地に立たされると助力を乞うてきた芳の里淳三、遠藤幸吉ら日本プロレスの幹部……。
そんな中、際立って存在感を発揮するのが、力道山の死後、日本プロレス第2代社長に就任した敬子未亡人から社長の座を譲渡され、第3代社長の椅子に座りながら、ギャンブル狂の放漫経営の末に、日本プロレスから追放された豊登道春である。
活字に起こすと、多くの読者から不興を買うことになるのは、必然かもしれないが、意外なことに田中敬子自身は「酷い目に遭ったとは思うけど、不思議なことに、豊登さんには、そんなに悪い記憶がない」と振り返る。加えて、筆者がこれまで会ってきた複数の関係者も「トヨさんはどこか憎めない人だった」「こういう閉塞した時代だからこそ、あんな快男児にまた会いたい」と異口同音に言う。
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そのニーズはファンにも浸透していたかもしれず、プロレス通として知られるミュージシャンの桑田佳祐は、1983年に友人である小林克也が率いるザ・ナンバーワン・バンドに『プロレスを10倍楽しく見る方法/今でも豊登を愛しています』(アルバム『東京あたり』収録)を提供するなど「豊登」というネーミングは、現役を離れてからも一定の存在感を示してきた。
豊登とは一体何者なのか、日本のプロレスに何をもたらしたのか、何故そこまでの人気スターでありながら、早々に表舞台から姿を消したのか。ある意味において、力道山以上に数奇な彼の生涯を追ってみたい。【全3回の前編/中編、後編も公開中】
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「60kg×3つ=180kg」怪力エピソード
豊登こと本名・定野道春は1931年3月21日、福岡県田川郡金田村(現・田川郡福智町)に生まれた。山地で育ったせいか海への憧れが異常に強く、将来の夢は海軍軍人。「大好きな船に乗って、好きなだけ飯が食える」と日夜願う、どこにでもいる九州の少年だった。
14歳を迎えた1945年、福岡県戸畑市(現・北九州市戸畑区)の日本製鉄の海員養成所に入所、三等機関士の資格を取得し、正式に海軍志願の手続きを取るが程なく終戦。その後は、八幡製鉄が募集した「曳き舟」に乗り、機関室で働く。その一方、荷揚げの仕事を通じて自らに並外れた怪力があることを自覚する。この時期、約60kgの米俵を3つ担いだという逸話もある。