Number Web MoreBACK NUMBER
「非合法ギャンブルで一晩2000万円を溶かし…」日本プロレスから追放された“伝説のレスラー”豊登とは何者か?「“親方と不仲説”…23歳で相撲界から消えた」―2024下半期読まれた記事
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2024/12/26 17:00
1954年10月、「親方との不仲」で力士廃業した豊登(当時23歳)。プロレス転向後の1枚(1955年2月撮影)
終戦から2年経った1947年春、小倉に横綱・羽黒山一行の巡業が来た。後援会の会員に連れられ、16歳の定野少年も顔を出すと、体格の良さを見込まれその場で入門が決まる。3カ月後の大相撲夏場所で「定野」の四股名で新序ノ口として初土俵を踏み、3勝2敗の成績を残している。余談になるが、この夏場所で東前頭8枚目ながら9勝1敗の好成績で準優勝に輝いたのが、のちに切っても切り離せない仲となる力道山である。
東序ノ口5枚目で迎えた秋場所で3勝3敗の成績を残すと、序二段に昇進。「定野」の四股名が初めて活字で確認されるのは、1948年5月14日付の日刊スポーツで、東序二段18枚目で迎えた夏場所の初日に、播磨山に敗れている。それでも、夏場所は4勝2敗、西序二段3枚目で迎えた秋場所も4勝2敗と二場所連続で勝ち越し三段目に昇進。故郷の金田村にちなみ「金田山」と改名して迎えた1949年の春場所は9勝3敗で、あっさり幕下に昇進。西の幕下20枚目で迎えた夏場所も9勝6敗と勝ち越し、四股名を長くファンに愛されることになる「豊登」と改名している。
ちなみに、この夏場所においてトピックとして報じられたのが、肺ジストマを患いながら休場することなく土俵に上がり続け、3勝12敗で大きく負け越した力道山についてである。拙著『力道山未亡人』でも詳述したが、このときの治療費で散財した力道山は「治療費の請求云々」で師匠の二所ノ関親方と仲がこじれ、そこから「力士廃業→プロレス転向」まで発展したことを思うと、この件と、何ら関係のない豊登の人生まで大きく巻き込まれることになったのは、どことなく因果めいている。
親方との不仲説「感情的な対立がある」
ADVERTISEMENT
新四股名「豊登」として迎えた秋場所を9勝6敗と勝ち越すも、西幕下6枚目で迎えた春場所は7勝8敗と初の負け越し。しかし、夏場所では11勝4敗と大きく勝ち越して十両昇進を決めた。関取の仲間入りである。この場所で8勝7敗と勝ち越したのを最後に、角界から去ったのが、このとき西関脇の力道山だった。新関取として本格的に出世の階段を上り始めた豊登に、プロレスという新たなビジネスが、その姿を現しつつあるのは興味深い。