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「なぜ“100年に1人の天才”がわざわざ無名校に?」全国高校駅伝26年前の奇跡…「1日60km走ったことも」駅伝弱小県の新興校が“超名門”になるまで
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byJIJI PRESS
posted2024/12/22 06:03
黎明期の佐久長聖高に突如現れた「天才」佐藤清治。後に4種目で高校記録を塗り替える怪物を、チームメイトはどう受け入れたのだろうか
これまで以上に徹底して「量」を走った。今のように体幹トレーニングや科学的な練習法が確立されている時代ではない。完全オフの休日は作らず、ひたすら毎日走り続けた。毎月の走行距離は優に600kmを越え、夏合宿では1日の走行距離が60kmを超える日もあったという。
「現監督の高見澤も『当時は練習量だけなら今の倍近かったと思う』と言っていましたから、時代もあったとはいえよく走ったなぁと思います」(松崎)
小嶋と松崎の2人が「あまりのキツさに記憶に残っている」と声をそろえたのが、車山のスキー場を利用したクロカンコースで行う15kmほどのペース走だった。
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「今でも覚えていますけど、アップダウンがものすごいので、最後は本当に比喩じゃなく足が全く動かなくなるんです。最後はもう、歩くような感じで。でも、そこまで追い込んでやっていましたね」(小嶋)
なぜ1期生たちは誰も「辞めなかった」?
一方で、結果が約束されていない状況でそれだけの辛い練習を続けることは、決して楽なことではないように見える。だが、1期生は意外にも誰一人欠けることなく3年目まで残っていたという。松崎が振り返る。
「ひとつは寮があったのは大きかったですね。当時は駅伝部専用ではなくて、遠方から通ってくる普通の生徒用の寮にみんなで入っていて。私生活まで懸けてやっているのに、ここまで来て途中で辞めるという選択肢はみんな頭に浮かばなかったんだと思います」
もちろん、一度入部した部活を辞めることにネガティブな印象が強かった当時の時代性も背景にはあったという。
「練習にしてもいまのように性能のいいシューズがあって、もともとスピード抜群の選手が集まっているわけでもない。その意味で、結果的に量を重視するスタイルがちょうどハマっていた。記録が伸びればやっている方もやっぱりできちゃうものなんですよ」
そして迎えた3年目の県駅伝。松崎はレース前の両角監督の言葉をいまでも覚えているという。
「『私を都大路に連れて行ってください』と、嘆願されて頭を下げられて。それで自分たちが『行きたい』というよりも何とか両角先生を『行かせてあげたい』と思ったんですよね」
この時、5000mで14分台の記録を持つランナーを7人揃えていた佐久長聖は、実は当時では全国的にも稀有なレベルに達していた。普通に走ればまず負けない選手層になっていたことに加えて、超高校級である“ジョーカー”佐藤清治も擁していたわけで、客観的に見れば圧倒的優位の下馬評ではあった。