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「なぜ“100年に1人の天才”がわざわざ無名校に?」全国高校駅伝26年前の奇跡…「1日60km走ったことも」駅伝弱小県の新興校が“超名門”になるまで
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byJIJI PRESS
posted2024/12/22 06:03
黎明期の佐久長聖高に突如現れた「天才」佐藤清治。後に4種目で高校記録を塗り替える怪物を、チームメイトはどう受け入れたのだろうか
同じ高校生だ、勝てないことはないだろう。怖いもの知らずの素人集団は、100年に1人の才能であろうと関係なく、練習ではガンガン勝負を挑んでいった。そうしてそんな天才と練習をともにすることで、むしろ1期生たちの能力も、上限にフタをすることなく伸び続けることになる。
強力ルーキーの加入による化学反応を経ての、もうひとつの大きな変化は夏のインターハイだった。1期生から卓球部だった宮入一海と小嶋が、3000m障害で全国大会出場を決めたのだ。しかも宮入は、そのまま8位に入賞するおまけつきだった。松崎が言う。
「当時の目標はとにかく“都大路=全国大会に出る”ことでした。その意味でインターハイとはいえ宮入と小嶋が1期生として初めて全国の舞台に進んだことはとても刺激になりました」
元「卓球部」と「スキー部」が…インターハイ出場
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前述のように宮入と小嶋は中学時代は卓球部とスキー部で、決して入部当初からエース格だったわけではない。入部直後から全国レベルだった佐藤のケースとは異なり、そんな選手の躍進は同期たちにとっても大きな意味を持った。
他にも新入生には現在駅伝部で監督を務めるバスケ部上がりの高見澤勝など、ポテンシャルの高いランナーも多かった。結果的にそんな強力な下級生の加入もあり、秋の長野県高校駅伝では創部2年目にして、2位まで上り詰めた。松崎が振り返る。
「ただこの年は正直、勝てる可能性もあったレースでした」
敗因は、3区を走った松崎のブレーキだった。
調子が良かったために、直前までアンカー予定だったものが長距離区間に変更となったことで、気負ったことが影響したという。
「タイムやトラックレースの実力的には十分、全国に行けても良かった。それだけに、悔しさだけが残りました。同時に、自分のミスが原因だったこともあって、『来年こそは絶対に都大路に行くんだ』という気持ちが固まりました」
最終学年となった1期生の中で、松崎はキャプテンになった。
勧誘期間を含めれば、両角監督体制になってはや4年目。「5年で都大路」という学校側との約束に向けては、もはや尻に火が付きはじめていた。
「ここまでくるとみんな基準が“全国”というレベルになって来ていました。夏はインターハイに行くこと。そうして秋はとにかく都大路に行く。駅伝で、県で1番になることだけを考えていましたね」