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「そんなの無理でしょ」全国高校駅伝26年前の奇跡…部員は「卓球部やスキー部の素人ばかり」なぜ無名校の“寄せ集め集団”が「全国4位」になれた?
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph by取材対象者提供
posted2024/12/22 06:02
今では高校駅伝の超名門となった長野・佐久長聖高。初めて全国高校駅伝出場を決めたのは、駅伝部第1期生が3年生となった1998年のことだった
1996年の4月、松崎は佐久長聖高駅伝部の1期生として、同校へと入学した。
と同時に、周囲を見て軽く頭を抱えることになった。自分も含め、同期で入学してきた駅伝部員は6人。だが、その半数は卓球部、スキー部、そして短距離走者の自分と、そもそも長距離走とは縁遠いメンツだったからだ。
残りの3人も長距離経験者だったとはいえ、県レベルですら実績があるわけでもない。にもかかわらず、変わらず両角監督は「全国を目指す」と言っているのである。
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その「スキー部出身」こと小嶋卓也も、入学前の様子をこう記憶している。
「中学時代はスキーが中心で、たまに駅伝になれば陸上にも駆り出される程度。(※中学生長距離ランナーの指標になる)3000mは公式戦で走ったことはなくて、1500mで4分50秒とかがベストだった気がします。たしか当時はテレビでやっていた『箱根駅伝に出たいなあ』とはうっすら思っていて、そんな中で両角先生が声をかけてくれたので、嬉しくて進学を決めた感じでした」
最初の練習は…「女子部員と一緒に30分ジョグ」
松崎は、入部して最初の練習をいまでも覚えている。
「女子部員と一緒に30分ジョグをしたんです。両角先生が先頭で、みんなで雑談しながらそのへんの道路を走って。今じゃ考えられないですよね(笑)。帰ってきて、時計を止めたらジャスト30分00秒で『一流ランナーの体内時計ってスゴい!』と思った記憶があります」
そんな牧歌的な練習しかできないメンバーの実力的な問題に加えて、当時、近隣には陸上競技用のトラックが無く、練習環境も基本的にはロードを走るだけだった。
当初は両角監督が赴任する際に、学校の持つ土地に陸上トラックを作る計画があったそうだが、実際に予定地を工事してみると地下から「遺跡」の一部が出てしまった。そのためそこから工事を進めることができず、頓挫してしまったのだ。ちなみにこの「遺跡」の上を両角監督自ら整備したのが、いまとなっては有名な佐久のクロカンコースとなっている。
恵まれない環境と、高いレベルのトレーニングはできないメンバー構成。
そんな状況の中で両角監督が1期生たちに求めたのは、まずは練習の「質」ではなく普遍的な「量」だった。松崎が当時の練習を振り返る。
「最低でも60分ジョグを毎日。ポイント練習では1万2000mとか1万6000mのペース走とかですね。とにかく距離を踏んで、完休の日なんてない。毎日毎日、ひたすら走り込みです(笑)」