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「1週間、酒も競輪も誘わないでくれ」“元天才少年”が谷川浩司19歳との初対局前に…「医者はいつ死んでも、と」芹沢博文51歳の太く短い人生
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田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2024/12/09 06:02

1983年の谷川浩司。若き日から谷川の才能を買い、彼との初対局のために酒やギャンブルを断った棋士の逸話とは
「酒飲みは酒を飲むためにいろいろと努力する変な人種ですね」
こう自嘲気味に語った。
生死の境をさまよう肝臓の大手術を受けた後は、3年間の「休酒」を宣言した。酒を飲んだら命取りになるのをわかっていた。休酒によって食事が美味しくなり、よく眠れるようになり、本を読む速さが増した。早朝に自転車で近所を走ると、花や緑の美しさを感じたという。そして1年間、一滴の酒も口にしなかった。
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しかし、1年後に「休酒明け」パーティーを都内の宴会場で盛大に開いたとき、ワインのほかに日本酒も飲んだ。その後、主治医に禁酒をきつく言い渡されていたが、酒の量は次第に増えていった。
終局後「医者はいつ死んでもおかしくないと。でも…」
1986年7月、私こと田丸七段はある公式戦で芹沢九段と対局した。芹沢は終局後に「医者はいつ死んでもおかしくない状態と言うんだ。しかし今もこうして生きている。もしかすると死ぬにも体力がいるのかもしれないな」と、土色に化した表情で語った。
芹沢の容態が次第に悪化したとき、和子夫人に本心を語ったという。
「太陽と死は見つめるなかれで、死に対して考えすぎないことにしている。あと2年は現役でいたい。引退すると発言力がなくなるからで、将棋連盟のためにやるべきことがもっとある」
やがて昏睡状態に陥った。
1987年12月9日、芹沢は東京・目黒区の入院先の病院で肝不全のために51歳で死去した。
告別式は11日に港区の寺院で執り行われ、弟弟子の中原名人が葬儀委員長を務めた。生前に兄貴分と慕っていた米長邦雄九段が涙声で弔辞を読んだ。
芹沢は辛口意見と毒舌で関係者とトラブルを引き起こすこともあったが、将棋界の在り方をいつも真剣に考えていた。将棋界や棋士の存在をメディアを通して、世間にアピールした貢献はとても大きかったと思う。
