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「1週間、酒も競輪も誘わないでくれ」“元天才少年”が谷川浩司19歳との初対局前に…「医者はいつ死んでも、と」芹沢博文51歳の太く短い人生
text by

田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2024/12/09 06:02

1983年の谷川浩司。若き日から谷川の才能を買い、彼との初対局のために酒やギャンブルを断った棋士の逸話とは
「これから1週間は、酒も競輪も誘わないでください。斎戒沐浴して対局に臨みます。何十年に一人という天才に対する礼儀というものです」
実際に対局前の1週間は、酒を断って文筆や講演の仕事をすべてキャンセルした。自宅では読書をして過ごした。
一方の谷川も後年に自著で、芹沢についてこう述懐している。
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《芹沢先生には自分の棋譜をいつも見られていると思い、緊張して指したものだ。「勝とうと思って指すな。自分が正しいと思った手を指せば、結果的に勝ちにつながる」などの言葉で教えられた。私の将棋には、先生の考え方が少なからず反映しているような気がする》
「谷川と一局でも真剣勝負を指せてよかった」
芹沢−谷川戦は序盤で早くも戦いが始まり、谷川の攻めを芹沢が応戦する展開となった。そして一進一退の攻防が続いた末の終盤で、《楽で幸せをつかめないと思った》(芹沢の自戦記)という危険を承知の力強い一手が決め手になった。
芹沢は谷川に見事に勝った。その瞬間、全身から力が抜け、しばらく声が出なかったという。なお81年度B級1組順位戦では、谷川は10勝2敗でA級に昇級し、芹沢は2勝10敗でB級2組に降級した。芹沢は後年に「谷川と一局でも真剣勝負を指せてよかった」と語った。
1984年4月、芹沢は勝利数の規定(八段昇段後に250勝)によって九段に昇段した。八段時代は「並八」「チョメチョメ八段」と冗談っぽい異名を使った。九段になると「九段の下」と称した。タイトル獲得にともなわない昇段に気恥ずかしさを感じたのだろう。
「気が小さくて口下手なので…」名うての酒豪だった
芹沢は名うての酒豪だった。一升瓶の日本酒を1時間半ほどで飲み、ウィスキーは3日でボトル2本を空けた。日本酒は八海山、白ワインはシャブリを好んだ。ウィスキーはシーバスリーガルを愛飲し、冷蔵庫で冷やしてストレートで飲んだ。
気が合う友人たちと陽気に飲むのが好きだった。酒場で女性に「よくお話しになる愉快な方ですね」と言われると、「いえいえ、気が小さくて口下手なので、思っていることの半分も言えません」と決まり文句で応じた。色紙には《将棋は苦し 酒は楽し 人生は哀し》の文言を書いた。まさに「酒仙」といえた。
酒がかなり強かった芹沢だが、長年にわたる深酒によって体調を崩し、公式戦の対局で不戦敗したり休場することがよくあった。半年ほど「休酒」したときは日曜日だけ飲んだ。酒を断った1日目と2日目の夕方は、汗が出て唇が乾いて辛かったという。どうしても酒を飲みたくなると、知人と電話ですむ話なのに夕方に外で会って飲んだ。