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「1週間、酒も競輪も誘わないでくれ」“元天才少年”が谷川浩司19歳との初対局前に…「医者はいつ死んでも、と」芹沢博文51歳の太く短い人生
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田丸昇Noboru Tamaru
photograph byKyodo News
posted2024/12/09 06:02

1983年の谷川浩司。若き日から谷川の才能を買い、彼との初対局のために酒やギャンブルを断った棋士の逸話とは
将棋を愛好した田中は就任後に中原誠新名人、同じ新潟県生まれで交流があった原田泰夫八段らを首相官邸を招き、彼らから六段の免状を贈呈された。自民党総裁選の頃には、中原は田中に自筆の扇子を贈ったこともある。表には「5五角」が書かれてあり、「ゴーゴー角(栄)」と応援する意味が込められていた。
田中首相は庶民的な出自から「今太閤」と呼ばれ、日中国交正常化を実現して支持率が高まった。しかし、74年に金脈問題が発覚して退陣に追い込まれ、76年にはロッキード事件で受託収賄罪の容疑で逮捕された。田中は政界の表舞台から退いたが、多数の田中派議員を擁して隠然たる影響力を及ぼしていた。
目白御殿に招かれて政界進出を持ちかけられたことも
そんな時期に中原名人、芹沢八段、田中寅彦三段らの高柳一門の棋士が、東京・目白の田中邸をよく訪れて無聊気味の田中に将棋を指導した。中でも才気煥発な芹沢は、田中に大いに気に入られた。
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こんなエピソードがある。
目白御殿と呼ばれた田中邸の池は、高価な錦鯉で知られていた。ある日、芹沢がのぞいてみると一匹もいない。「どうしたのですか」と聞くと、田中は「鯉は土地が変わると色がさめるので田舎に帰した」と答えた。すかさず芹沢が「恋(鯉)もいつかさめる」と当意即妙に応じると、田中に「先生、それはいい」と誉められたという。
芹沢の話によると、田中の将棋は攻めっ気が強くて中飛車を好んだ。棋力は初段ぐらい。ただ本人は3級か4級と思い込んでいて、こんな風に真顔で言われたこともあるという。
「実力初段にしてくれたら、たいていのことは聞く」
じつは芹沢は、田中から政界への進出を持ちかけられたことがあった。参議院・全国区から出馬する話で、田中の後ろ盾があれば当選は十分に可能だ。しかし82年に選挙制度が全国区制から拘束名簿式比例代表制に変わると、出馬の話は立ち消えになった。
10代の頃から谷川浩司の才能を認めていた
そんな芹沢が早くから豊かな才能を認めていた棋士がいる。当時まだ10代だった谷川浩司(現十七世名人)である。順位戦で連続昇級していた谷川について、「将棋に打ち込む態度、落ち着いた所作、読みの深さ、決断力と、あらゆることに秀でている」と絶賛したものだ。
2人が初対局したのは、1981年度のB級1組順位戦の第7戦。芹沢八段が45歳、谷川七段が19歳の時だった。対局にあたって、芹沢は遊び仲間の知人にこう語った。