- #1
- #2
“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「ガンで逝った従兄弟、事故死した友のために」元“崖っぷちJリーガー”がシンガポール代表になるまで「板倉や鎌田がA代表に…自分は何してるんだ」
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byAyumi Nagami
posted2024/12/04 11:01
シンガポールのタンピネス・ローバーズFCでプレーする仲村京雅(28歳)。先日、帰化が承認されA代表デビューを果たした
ここまでのキャリアを振り返ると、仲村がスパイクを脱ぐ決断をするタイミングはいくつもあったように思える。サッカーを続けるにしても、本業となる仕事を見つけながら、社会人クラブでプレーする選択肢もあっただろう。なぜ、光が見えない中でも、向上心を持ち続けることができたのだろうか。実は仲村を突き動かす出来事がある。
仲村は小学4年生の頃、実の弟のように可愛がっていた5歳下の従兄弟を血液のガンで亡くした。幼稚園に入ってからはよく一緒にボールを蹴ったが、病は日に日に悪化し、最期は車椅子生活を余儀なくされた。
「ある日、ふと練習から帰ってきた僕を見て『僕も、もっとサッカーをやりたかったな……』とボソッとこぼしたんです。その言葉が今も脳裏に焼き付いていて」
その言葉からまもなく、従兄弟はこの世を去った。「なんで僕は走れなくなったの?」と問いかけられた言葉が、今も仲村の脳裏に残っている。
「あんなに活発な子だったのに……。だから、どんな状況になっても『サッカーをできているだけ幸せじゃないか』と思えるようになったんです」
親友が事故死「新聞で知りました」
2年後、仲村は再び近い人を亡くしている。小学6年生の時、同じVIVAIO船橋でプレーしていた大親友が交通事故で突然、この世を去った。
「小学校が別だったので、事故のことは新聞で知りました。普段、読むことはないのですが、たまたま朝刊を見て親友の名前を見つけたとき、頭の中が真っ白になりました」
少年時代に経験した2人の死が、日常に向き合う姿勢を教えてくれたのかもしれない。試合に出られなくても、仕事で帰宅が夜遅くなっても、どんな時も練習のピッチには誰よりも早く向かった。ギャンブルやお酒に逃げることもしなかった。もちろん、同じ志の仲間に支えられてきたのも事実だが、仲村の意志の強さが現在に繋がっている。
「環境のせいにしたり、文句や弱音を言ったりはしましたが、それだけになっている選手とは一緒になりたくなかったし、実際にそういう選手はどんどん消えていった。何よりサッカーを本気でやり続けたかった。僕は『消えた選手』になりつつありましたが、完全に消えるわけにはいかなかったんです」