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“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「ガンで逝った従兄弟、事故死した友のために」元“崖っぷちJリーガー”がシンガポール代表になるまで「板倉や鎌田がA代表に…自分は何してるんだ」
posted2024/12/04 11:01
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
Ayumi Nagami
下部組織からプレーした愛着あるジェフ千葉では、一度も公式戦のピッチに立つことなくクビになった。2018年はレンタル移籍先だったJ3のY.S.C.C.横浜に完全移籍して再起を誓うも、リーグ出場わずか4試合。何よりスクールのコーチ業との掛け持ちで、生活も給料もギリギリだった。
かつてU-17W杯でベスト16に輝いた仲村京雅のサッカー人生は、窮地に追い込まれていた。
「(2018年は)同い年が大学4年生の時で、翌年にはJ1やJ2に即戦力として入ってくる。何より一緒に日本代表でやっていた三好康児や三竿健斗、(U-17W杯メンバーから漏れた)北川航也、井手口陽介、世代別代表に入っていなかった板倉滉や鎌田大地ら同級生がA代表に近づいていた。自分は何をしているんだろう……と、現実を受け入れられなかった。サッカー関連のニュースは一切見ないようにしていましたね」
サラリーは低かったが、サッカーに集中できる
YS横浜から契約延長の打診はあったが、新しいチャレンジをするために仲村はトライアウトに参加した。JFLを含めた数クラブからのオファーが届き、中には良い条件もあったが、劇的に状況を変えるべくアルビレックス新潟シンガポール(以下、アルビレックスS)を選んだ。
「英語を習得したかったのもあって英語圏のシンガポールは魅力的で、断る理由がないくらいの即決でした」
現在のアルビレックスSは年齢制限がないが、当時は育成を目的としたU-23のチーム。つまり仲村は最年長だった。高校を卒業したばかりの選手も多く、学生気分が抜けない選手たちとの共同生活。住居の環境は整備されていたが、サラリーはJリーグ時代より低く、モチベーションを保つのは決して容易ではなかっただろう。それでも、仲村にとってはサッカーに専念できる環境は幸せだった。
シーズンを通して主軸としてプレーすると、8ゴール9アシストとキャリアハイの数字を残し、オフには複数のシンガポールのクラブからオファーが殺到した。
「当時はまだJ1、J2に戻りたい気持ちが強かったので、ACLで日本のクラブと戦って自分が活躍をすればチャンスが来ると思っていました」