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「赤坂でヤクザに刺され…」39歳で急死した力道山…その後継社長になり、ギャンブルで大失敗したレスラー“知られざる人生”「アントニオ猪木が土下座した日」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph bySankei Shimbun
posted2024/09/11 11:06
力道山vsデストロイヤー。豊登(左)と アントニオ猪木(右)に助けられ、会場を後にする力道山
「豊登って人は、常に感覚で動くと言うか、良くも悪くも計算しない人だったけど、唯一計算したとすれば、猪木さんに接近したことかもしれない。いや、最初からそのつもりだったわけではなかったと思うけど、馬場さんが出世することへの焦りが、そうさせた部分はあったと思う」
「それと、トヨさんにとって厄介だったのは遠藤幸吉ね。遠藤はトヨさんとはそりが合わなかった。それなのに、遠藤も猪木さんに肩入れするもんだから、傍から見ていてもややこしかったね。昔のことだからよく憶えてないけど、確かトヨさんを慕う若手が、遠藤を袋叩きにした事件があったんじゃなかったかな」
琴音の言う「遠藤幸吉を袋叩きにした事件」とは、後年の話になるが、豊登を信奉する若手選手のグループ「隼隊」が、人気エレキグループ・ベンチャーズのコンサートを、リキスポーツパレスで開催しようと動いていたところ、遠藤幸吉に興行権を奪われたことに激怒し、遠藤を襲撃した一件を指す。筆者は「この時代のプロレスラーは所属会社の幹部をも容赦なく襲撃するのか」と驚愕したものだが、琴音に言わせると、その背景には「豊登と遠藤の潜在的な対立構造があった」ということで、いずれにしても、今なら考えられない顛末である。
ともかく、エースの力道山は変わらず絶大な人気を誇り、ナンバー2の豊登の地位も安泰、この状態は永劫続くかに思われた。しかし、1963年12月15日、驚天動地の出来事が起こる。赤坂のクラブでやくざに刺された力道山が、それから1週間後のこの日、突如としてこの世を去ったのである。それまで、力道山の庇護下で悠々自適のプロレスラー生活を送っていた豊登も、激動の最前線に放り込まれることになる。
力道山に代わるエースに祭り上げられることになったのだ。
<続く>