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「赤坂でヤクザに刺され…」39歳で急死した力道山…その後継社長になり、ギャンブルで大失敗したレスラー“知られざる人生”「アントニオ猪木が土下座した日」
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph bySankei Shimbun
posted2024/09/11 11:06
力道山vsデストロイヤー。豊登(左)と アントニオ猪木(右)に助けられ、会場を後にする力道山
子供たちが真似した“パフォーマンス”
翌1955年から、豊登道春は本格的にプロレスラーとしての一歩を踏み出す。当時の新聞記事にはこうある。
《毎朝卵五コ、牛乳二台、チーズの朝食、夕食はステーキ、チャンコで体力はOK、昨年十二月幕内力士からプロ・レスラーに転向した注目の豊登は岩のような顔をしている。転向当時からみると上半身がぐんと締まってきたそうだ。右腕は二十二インチに肥り、しかも鋼鉄のよう。「つまんでごらんなさい」といわれても絶対つまめぬ堅さには驚かされる》(1955年4月4日付/日刊スポーツ)
それでも、当時の日本プロレスの序列で言うと、力道山、東富士、遠藤幸吉、駿河海に次ぐ5番手で、すぐにスターの座が用意されたわけではなかった。それどころか、この年の暮れには待遇に不満を抱き、「プロレスはやめて、柔道家になる」とその足で小石川の講道館を訪ねてもいる。しかし、講道館第3代館長の嘉納履正ににべもなく断られ、結局、3カ月後に日本プロレスに復帰している。
当時の豊登について黎明期の相撲評論家の小島貞二は自著で次のように書いている。
《豊登は一度プロレスを去った。こじれこじれてその復帰はむずかしかったが、芳の里は豊登の怪力と、その得難い素質を惜しんで、力道山の感情をやわらげることにわがことのように努力した。豊登カムバックの裏には芳の里の友情をみのがすわけにいかない》(『日本プロレス風雲録』ベースボール・マガジン社)
日本プロレスに復帰した豊登は、東富士、駿河海の脱退や、1956年開催「全日本ウェイト制」の好成績もあって、遠藤に代わってナンバー2に昇格。髪をリーゼントに整え、漆黒か深紅のガウンに身を包み、ゴージャスな雰囲気を纏ってリングに登場したエースの力道山とは対照的に、半纏を羽織って、裸足でリングに駆け上った豊登は、上半身裸になると、丸太のような太い腕を脇の下で交差させ「カポン、カポン」と妙に大きな音がさせるのが定番のパフォーマンスだった。それを目の当たりにした対戦相手の外国人レスラーが「やめてくれ」と言わんばかりの大袈裟なジェスチャーを見せると、場内は大いに沸いた。当時、プロレスを夢中で見ていた子供で、この豊登の真似をしなかった子供はいなかったのではないか。ともかく、彼の存在は興行になくてはならないものとなる。
「アントニオ猪木」の名付け親だった
後輩選手が増加すると、豊登の存在感はさらに増すようになる。巡業中の暇潰しに、若手選手にリングネームを命名するようになったのもこの時期である。その主なものは次の通り。(カッコ内は本名)