「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
広岡達朗92歳が大笑いした“ある質問”…その内容とは?「えっ、広岡さんがそんなことを…」ヤクルト監督時代の本音「エースは松岡に決まっとる」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2024/08/30 11:35
1978年にヤクルトスワローズを球団初の日本一へと導いた広岡達朗。92歳になった名将が語る、「あの大エース」への“本当の評価”とは
当時のスワローズ投手陣について語る際に、しばしば「左の安田、右の松岡」と称される。78年の開幕投手は安田が務めている。一体、広岡は両者のことをどう見ていたのか? 当時のエースは、誰だったのか? 素朴な質問をぶつける。広岡は憤然として言った。
「エースは松岡。松岡に決まっとる。安田はただ投げられるだけ。投げられるだけの人。エースは松岡。松岡とは一緒に苦労した仲なんだよ」
広岡は何度も「苦労した仲」というフレーズを使った。
「あなたは松岡さんを信頼していなかったのですか?」
「……えっ、広岡さんがそんなことを言っていたの?」
開口一番、松岡は言った。彼はずっと自身のことを「広岡さんからの信頼がない」と考えていたからだ。本連載において、松岡はこんな言葉を残している。
「76年のシーズン途中に広岡さんが監督になって、初めて迎えた77年の開幕戦も結果を残せなかったし、広岡さんの中には“あいつは、よーいドンでつまずくヤツだ”という思いもあったんじゃないのかな? 本人に聞いたわけじゃないからわからないけど、開幕戦の勝率も悪かったし、それ以外にも大事な場面で失敗もしていたし、広岡さんからの信頼がないということは、それまでにもうっすらと感じていたから……」
この言葉を広岡に告げた。そして、「あなたは松岡さんを信頼していなかったのですか?」と単刀直入に尋ねると、広岡は笑い声をあげた。
「ハハハハハ、松岡は大将ですよ。松岡は、ヤクルト投手陣の大将なの。私がスワローズ監督に就任してすぐに取り組んだことがある。それが、《ローテーションの整備》ですよ。野球というものは投手が点をやらなければ決して負けることはない。だから、最初に考えたのが“先発ローテーションを固定しよう”ということ、次に“どんなことがあっても、5回までは絶対に代えない”ということ。そして、“勝ちパターン、負けパターンの継投を確立させよう”ということ」
76年シーズン途中、監督代行を経て、正式に監督に就任した。その際に取り組んだのが「ローテーションの整備だった」という。広岡は言う。