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甲子園の風BACK NUMBER
大谷翔平「小4からホームラン量産」伝説…幼なじみ捕手が明かす成長物語「中学の時はストライクが入らず、大変だった」
posted2024/06/19 06:00
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph by
Nanae Suzuki
「ダイキくん」「ショウヘイ」
幼少期の大谷翔平から「ダイキくん」と呼ばれ、頼られた2つ年上の幼なじみがいる。佐々木大樹は、32歳となった今でも、北海道の日本製鉄室蘭シャークスで白球を追いかけている。そのひたむきな姿は、「ショウヘイ」とともに岩手で過ごしたあの時代と、何ら変わりはない。
「翔平は当時から活発で、ゲームをするというよりは、とにかく外で野球やサッカー、ドッジボール、鬼ごっこをしていました。僕も外が好きだったので、みんなでよく遊んでいました」
初対面は幼稚園の頃だった。互いの母親同士が近所の体育館でやっていたバドミントンについていくうちに、子ども同士が仲良くなった。ただ、幼少期の2学年差と言えば、体格面や運動能力などを含めて違いは明確。外で遊ぶにしても、走り回る年長のはるか後ろをついていくのがやっとだが、翔平少年も負けていなかった。
2学年上の佐々木と肩を並べる身体能力
「体力や身体能力、走りも僕とほとんど変わりませんでした。当時からやっぱり凄かったです」
佐々木はその後、硬式の水沢リトルで本格的に野球を開始。大谷も小学2年で入部し、4年になる頃には、65メートルほど先にある右翼のネットを越すほどの打撃を披露していたという。
「小4から飛ばしていましたね。バッティングは本当に凄かったと思います。普通の球場よりは狭いですけど、ホームランも何本か入れていました」
中学では一関リトルシニアへと進むと、その2年後には大谷も再び後に続いた。身長は、中1にして175センチと、他の新入生より頭一つ抜けていた。投手と捕手を務めていた佐々木が、「投手・翔平」を振り返る。
「スピードは当時で130キロ近かったと思いますが、コントロールが悪かったですね。フォアボールやデッドボールを何回出しても、ストライクを入れに行こうとするわけでもなく、全力で腕を振って自分の球を投げてくるので、大変だった印象しかありません」
打者としての凄み「どこに投げても打たれそう」
ただ、投手として相対した「打者・翔平」は、別格だった。