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初挑戦の1万mで世界陸上代表の衝撃…“破天荒プリンセス”絹川愛が「天才女子高生ランナー」になった日「何も知らなかったのが良かった」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/06/11 11:01
高校3年生で2007年大阪世界陸上の1万m代表に選ばれた絹川愛。それまで1万mの距離はほとんど走ったことがない状態だったという
高校卒業後はミズノに入社。駅伝チームのない実業団に有望な長距離選手が入るのは異例のことだった。高校時代からの恩師である渡辺高夫氏とマンツーマンで世界を目指したが、この頃、膝や腰などたび重なるケガに苦しめられた。ウィルス性の感染症でも離脱し、2008年の北京オリンピックの選考会には出場すらできなかった。
その後、2008年10月に自身が持つ1万mの記録を31分23秒21(※当時のU20日本記録)まで伸ばしたが、冬にまた風邪をこじらせてしまう。一時は寝たきりになるなど、重篤な状態だった。
「多分、風邪の菌が三半規管に入ったんだと思うんですけど、あの時は原因不明と言われて、めまいがずっと続いて苦しかったですね。病院でCTを撮ったんですけど、私、上を向いた瞬間に気絶したんですよ。外を10分歩いただけでも吐いたりして、これはもうやばいなって……。でも、時が経つってすごいですね、なんかこの病気も解明されたみたいです。病名を聞いて、『あっ、これ私がなったやつだ』って思いましたから」
不調を克服し2011年、2度目の世陸代表に選出
印象深いのは、ロンドン・オリンピックを翌年に控えた2011年のシーズンである。
復調間もない状態ながら日本選手権に臨むと、5000mでぶっちぎりの優勝を飾る。2位に入ったのが、2歳年上の新谷仁美(女子1万mの現日本記録保持者)であったことからも、当時の絹川の強さが伝わるだろう。
ホクレンの1万mでも日本歴代4位となる31分10秒02をマークし、両種目で世界標準を突破。自身2度目となる、世界陸上・大邱大会への出場を決めた。
なぜこの時、鮮やかな復活を遂げられたのか。当時、東日本大震災で母校が被災したこと、高校の先輩で親交のあったサムエル・ワンジル選手が事故死したことが切っ掛けになったと話していたが、改めて絹川はこう振り返る。
「あの時、初めて大人になれたんじゃないですかね。それまでは大人たちに言われた通りにやって、自分の考えも甘かった。でも、そうやって被災地で頑張っている後輩とか、サム先輩の思いを受け継がなきゃって考えたときに、他者の力が入ってくるとね、やっぱりすごい力が出せるんです。逃げずに踏ん張れって思えたんですね」
絹川はまだまだ伸びる。この頃、誰もがそう信じていた。
<次回へつづく>