ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「取り締まらないとは何事か!」警察に苦情電話が…アントニオ猪木に火をつけた“真のヒール”タイガー・ジェット・シン伝説《旭日双光章を受章》
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2024/05/03 17:06
旭日双光章を受章したタイガー・ジェット・シン
「俺だって頭が痛いよ」猪木の苦悩
その猪木・新日本から遅れること半年、’72年10月に日本プロレスから独立したライバルのジャイアント馬場が全日本プロレスを設立。こちらは最初からプロレス中継の老舗である日本テレビの全面バックアップを受け、世界最大のプロモーター連帯組織であったNWAからのレスラー招聘を独占することにも成功。スタートから完全に“メジャー”であった。
「私がNWAの総会に初めて出たとき、アメリカのプロモーターの馬場さんに対する信頼度というのを、嫌というほど痛感させられましたよ。アメリカのレスラー招聘ルートの98%は、すでに馬場さんが押さえていた。だから、無名外人ばかりだった新日プロに比べ、馬場さんの全日プロは最初から凄かったじゃない。もうマディソン・スクエア・ガーデンがそのまま移ってきたような豪華メンバーだったからね。だから馬場さんの全日プロは豪華客船のファーストクラスでの船出であり、対する猪木・新日プロは丸太のいかだのようなもの。いつ沈没してもおかしくなかったんですよ」
旗揚げ当初の新日本プロレスは、猪木の当時の妻である倍賞美津子が宣伝カーに乗り込みウグイス嬢までやるなど、必死の営業活動を続けたが客足は一向に伸びなかった。やはり日本人vs外国人の対決が主流だった当時のプロレス界において、魅力的な外国人レスラーの存在は必要不可欠なものだったのだ。
「だから私は猪木さんに何度も言いましたよ。『社長、外人なんとかならないですか?』と。すると『新間、俺だって頭が痛いよ』なんて言って、猪木さんも困り果てていたね」
そんなときに新間が知人から紹介されたのが、タイガー・ジェット・シンだった。
「あるとき、リキさん(力道山)の古い友人で貿易の仕事をしていた人物に『インドに凄いレスラーがいる、そいつを呼ばないか?』と持ちかけられたんですよ。写真を見せてもらったら、ターバンを巻いて、ヒゲをたくわえたハンサムなレスラーが写っていた。もともとインドのプロレスラーというのは、戦前にグレート・ガマという伝説的なレスラーがいたり、さらに力道山と名勝負を繰り広げたダラ・シンなんかもいて、神秘的な魅力を持っていたので、『これは、イケるんじゃないか』と思ったんだよね」