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“消えた天才”高校サッカー得点王…あの“静岡のスター”はなぜJリーグにいかなかった?「じつは名古屋と清水から“オファー”はありました」
text by
栗原正夫Masao Kurihara
posted2024/04/21 17:02
東海大一高時代に選手権得点王になった平澤政輝。彼はなぜJリーグにいかなかったのか?
「そのあとも少しだけですが、地域の同好会のチームで東駿河湾3部リーグでプレーしました。でも、正直に言うと、自分のなかでは高校サッカーでやり切った思いもありました。ずっとサッカーに携わっていたいかと言えば、全然そんな風には思っていませんでした。繰り返しになりますが、サッカーはモテたいために頑張った。それで人気者になって、最初はうれしくても、チヤホヤされることが続くと、ストレスに感じることも多かったんです」
1993年にJリーグが開幕。それに先駆けて1992年にナビスコカップ(Jリーグカップ)がスタート。平澤の高校時代のチームメートやライバルで大学に進学した選手たちも、プロとしてピッチに立つようになっていた。
平澤も高校時代は選手権得点王。トヨタ自動車サッカー部を離れブランクはあったが、Jクラブが放っておくはずはなかった。
実際、チームに知人の多かった名古屋グランパス、そして高校時代を過ごした静岡に誕生した清水エスパルスから誘いがあった。
「1000万円に達していなかった」「家族もいましたから」
「名古屋にはトヨタ時代の監督がフロントにいましたから。ただ話を聞いたら、『練習生からのスタート』だと言われ、お断りしました。
清水のフロントには東海大一時代の監督だった望月保次さんがいました。高校の同期のノボリ(澤登)も清水に入り、その頃共通の知人の結婚式で会う機会もあって、望月さんとノボリから一緒に『やらないか』と誘われました。でも、ブランクもあったし、条件面もよくなくて……。周りの選手が年俸何千万円という契約をしたということは耳に入っていましたし、それに対して自分に提示された金額は1000万円にも達していなかった。高校を出てから約4年、そんなに評価に差がつくものかと感じてしまいました。
独身だったら、プロという道を選択していたかもしれませんが、その時にはもう家族もいました。サッカーをやめたあとの人生を考えれば、そっちのほうが長い。いま思えば、すごいオファーが来なくてよかったと思っています」
往年のサッカーファンからは、「平澤がJリーグでプレーする姿を見たかった」という声も聞こえてきそうだ。ただ、いまも充実した生活を送っているからか、平澤の話から後悔のようなものを感じることはない。その時々で自分自身が納得したうえで、すべての決断をしてきたからだろう。
「後悔や悔しさがまったくないかといえば嘘になりますが、すべては自分で決めたことです。プロにいっても成功したかどうかはわからない。Jリーグにいかなかったからこそ、もしいっていたら……といまだに美化してもらえるのかなって。
僕はむかし西ドイツ代表で1970年W杯で得点王になったゲルト・ミュラーが好きでした。ゴール前にいて、ボールが来たときだけ仕事して点を取るみたいな。だから『FWも前から守備しろ』なんて言われると、『なんでFWが守備しないといけないんだ。守備なんかしていたら疲れて点が取れないだろ』というタイプでした。そんな選手が、全員攻撃、全員守備が当たり前になった時代に通用するわけないですよね。だから、おそらくJリーグにいっても、すぐに終わっていた。僕はそう思っています」
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Jリーガーにならなかった平澤。続きでは、トヨタ自動車でどんな仕事をしてきたか、そして今どんな仕事をしているのかを聞いた。
<続く>