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“消えた天才”高校サッカー得点王…あの“静岡のスター”はなぜJリーグにいかなかった?「じつは名古屋と清水から“オファー”はありました」
text by
栗原正夫Masao Kurihara
posted2024/04/21 17:02
東海大一高時代に選手権得点王になった平澤政輝。彼はなぜJリーグにいかなかったのか?
「大学から推薦の話もありました。ただ、家の事情もあったり、(先輩後輩の上下関係の厳しい)大学でまた1年からやるのは、どうかなって……。当時はJリーグもなくサッカーで生計を立てられるなんて夢にも思っていなかったですし。高卒にしろ、大卒にしろ、日本リーグで数年プレーしたあとは会社に残って仕事を続ける、というのが主流でしたから。
トヨタか古河電工(ジェフ千葉の前身)のどちらに進むか迷い、最後はトヨタに決めました。当時トヨタはJSL2部。サッカー的にはJSL1部でスタイル的にも自分により合っているのは古河電工だと感じていました。しかし長く勤めることを考え、より大きな企業ということでの選択になりました」
「グラウンドから出て行け!」
トヨタ入団後、平澤はすぐにレギュラーの座を手にし、1年目の1988-89シーズンにはのちに名古屋グランパスの初代主将となったFW澤入重雄との2トップで、22試合出場7ゴールと結果を出した。
だが3年目の1990-91シーズン、チームはJSL1部に昇格するものの、平澤自身は故障もあり11試合出場で無得点に終わる。すると翌1991-92シーズンの途中にはチームを離脱し、表舞台から消えることになった。
「順調だったのは1年目だけですね。正直、レベル的には高いと感じていませんでしたし、2部ではそこそこ通用していたと思います。ただ2年目には人生初の骨折を経験しました。その後、1部に上がったときは駆け引きなどを含め、難しさを感じていたのも事実です。
トヨタは1991年11月にコニカカップで優勝しているのですが、そのとき僕はもうチームを離れていました。10月のマツダ戦で2点を決めたのですが、2点目を決めたときに足首を捻りじん帯を伸ばしてしまったんです。その後は、リハビリをかねて別メニューで調整していましたが、走り込みのメニューばかりを強いられ最後はコーチと言い合いになり……。『オレの言うことを聞けないならグラウンドから出て行け』と言われたので、『わかりました』と言って出てきてしまった。僕もコーチもまだ若かったんです。
当時、午前中は仕事をして、午後から練習というスケジュールでした。言い合いになった翌日は午後も仕事を続けていたので、同僚は『えっ! 練習行かないの?』ってびっくりしていましたね」
「名古屋、清水から“オファー”があった」
1992年には、名古屋グランパスとなりプロ化したトヨタ自動車サッカー部と分かれ、東海社会人リーグに参加していたトヨタ東富士YFCに誘われた。仕事を続けながら東海社会人リーグで準優勝、続く全国地域サッカーチャンピオンズリーグ決勝ラウンドで2位となり、ジャパンフットボールリーグ(JFL)2部へ昇格した。だが、トヨタがサッカーの全国リーグに参加するチームを名古屋グランパス1本に絞ることを決定。翌年限りでチームは解散、平澤も社業に専念することになった。