格闘技PRESSBACK NUMBER
「なにをコラァ、お前っ」前田日明ブチギレ“伝説の控え室ボコボコ事件”…29年前のあの日、何が起きたのか? 坂田亘の対戦相手が証言する真相
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph bySankei Shimbun
posted2024/04/21 11:01
元プロレスラー前田日明。“伝説の控え室ボコボコ事件”が起きたのは1995年5月、前田が36歳のときだった
「ちょうどこの頃、週刊プロレスや格闘技通信に骨法が盛んに採り上げられていたんです。ライガーさん(獣神サンダーライガー=当時は山田恵一)や、船木さん(船木誠勝=当時は船木優治)の存在が大きかった。それに感化されたんですよ。『UWFに行くつもりだけど、骨法もいいかもしれない。じゃあ、そのまま内弟子になろう』って思って、割と軽い気持ちで家出しました」
東中野の骨法(当時の名称は喧嘩藝骨法)の道場に直行すると、創始師範の堀辺正史が「遠くからよく来たね、ゆっくりしていきなさい」と歓迎してくれて、そのまま、練習を見学することになった。
「夜になると練習生がぞくぞくと集まってきて、合計で30人くらいいましたかね。当時の骨法の練習は寝技ではなくて、完全に掌打による立ち技が主流でした。食い入るように見ていたんだけど、練習を見ているうちに、『家出して内弟子になるのは非現実的かもしれない』って気付いたんです。早い話が子供だったんです。結局、夜遅くまで練習を見終えて、そのまま夜行列車に乗って新潟に帰りました。家出というより、春休みの東京旅行ですよ(苦笑)」
大仁田厚「もういいや、テストはおしまい」
高3の秋を迎えて、進路や進学先を決める季節となった。ラグビー部を引退した鶴巻はこの時期、極真空手・新潟支部に入門している。それもこれも、すべてプロレスラーになるためで「UWFに行く」という目標を忘れたことはなかった。ただし、身長170cmの鶴巻にとって「身長180cm」という入門条件はどうしてもネックだった。「テストを受ける前に、身長制限で振り落とされるんじゃないか」と懸念したのだ。
年が明けた1990年、突如道が開ける。プロレス好きの同級生が「新団体が新弟子を募集しているぞ」と専門誌を見せてくれた。それが、旗揚げしたばかりのFMWだった。元全日本プロレスの大仁田厚が、1989年に立ち上げたFMWは、この当時「総合格闘技団体」を謳っており「ここなら、UWFみたいなスタイルでいけるはず」と睨んだのである。
早速、入門願書を送ると「書類審査合格」の一報が届いた。入門テストは高校の卒業式の翌日の3月2日。新大久保の職安通り沿いのフランスベッドの屋上で行われた。当時、フランスベッドはFMWのスポンサーだったのである。