「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
広岡達朗への不満で“日本一のヤクルト”は崩壊…それでも水谷新太郎が“広岡さんの正しさ”を信じる理由「僕みたいな選手が19年も現役を…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byTadashi Hosoda
posted2024/02/21 17:04
広岡達朗の“愛弟子”としてヤクルトの初優勝に貢献した水谷新太郎。70歳になった現在も師・広岡の教えは胸に刻まれている
「僕は今でもずっと広岡さんの教えは正しいと思っています。それは間違いなく、揺るぎなく100%です。途中、いろいろな横やりが入ることもありました。でも、そんなことはまったく気にならなかった。だって、いつクビになってもおかしくなかった、僕みたいなどうしようもなかった選手が、プロの世界で19年間も現役を続け、その後も指導者として生きていくことができたわけですから」
師に対する感謝の思いのこもった、心からの言葉だった。
「人生は死ぬまで勉強だよ」今も続く師弟関係
広岡とともに過ごした日々も、すでに遠い思い出となりつつある。それでも、水谷の脳裏には、およそ半世紀も前の光景がありありと刻まれているという。
「今でも、神宮の軟式野球場がありますよね。試合前の全体練習の前に一人だけ呼ばれて、いつも広岡さんとマンツーマンでゴロの捕球練習をしました。止まっているボールから始まって、コロコロ転がるボールを拾い続ける。あの光景は今でもハッキリと目に浮かびます。そして、試合開始が近づいてグラウンドに入ってからも、監督からのノックが続きました。本当に懐かしいなぁ……」
広岡と水谷による二人だけの静謐な時間。その光景を目の当たりにしてきた八重樫幸雄が振り返る。
「これから試合が始まるというときにも、激しいノックの嵐でした。ゲーム前のシートノックで泥だらけになるんですよ。だから水谷は、試合開始前にもう一度、ユニフォームを着替えるんです。その時間もないぐらいギリギリのときは、真っ黒なユニフォームのまま第一打席に入ったりしていましたね(笑)。それぐらいガッツにあふれたタイプでした。決して、めげないですから」
水谷自身も「決してめげなかった」と自負している。広岡に食らいつくことでしか、自分をアピールする術がなかったからだ。それでも、一度も師から褒められたことはない。
「広岡さんは常に冷静な方でしたから、褒められたことも叱られたこともありません。でも、それでいいんです。今でも電話でお話をする機会がありますけど、やっぱり緊張しますね(笑)。昔と全然変わっていませんから。先日、僕は70歳になったんですけど、広岡さんは僕のことを“まだまだひよっこだ”と思っているでしょうね」
年に数度、電話でやり取りする関係が、現在も続いている。そのたびに広岡は、水谷に同じ言葉を伝えているという。
人生は死ぬまで勉強だよ。これからもずっと勉強しなさい――。
この言葉を肝に銘じ、師の教えとともに、水谷は毎日を生きている。
<水谷新太郎編の第1回、第2回、第3回から続く>