「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
広岡達朗への不満で“日本一のヤクルト”は崩壊…それでも水谷新太郎が“広岡さんの正しさ”を信じる理由「僕みたいな選手が19年も現役を…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byTadashi Hosoda
posted2024/02/21 17:04
広岡達朗の“愛弟子”としてヤクルトの初優勝に貢献した水谷新太郎。70歳になった現在も師・広岡の教えは胸に刻まれている
連覇を目指して臨んだ79年シーズン開幕戦は、大洋ホエールズを相手に0対9と完敗を喫した。その後も白星から遠ざかり、開幕8連敗という最悪の状況に陥った。4月は14試合を戦い、3勝10敗1分に終わり、前年覇者の面影は微塵も感じられなかった。そして8月、シーズン途中にもかかわらず広岡はチームを去ることになってしまったのである。
広岡もまた、水谷の成長から多くのことを学んだ
78年の日本一達成直後に出版された自著『私の海軍式野球』(サンケイドラマブックス)において広岡は、期待の若手として杉浦享と水谷の名前を挙げている。
《水谷のような若手で、「あれは打つ方がダメだから」と、あっさり烙印を押されて、それで才能がのばせずにいる選手がいるのではないか。それも、じゅうぶん検討し、テストした。こうやっているうちに、杉浦、水谷らの若手が伸びてくる。》
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この例に限らず、後年もずっと「人は必ず成長するのだということを、私は水谷から教わった」と広岡は口にすることになる。
「とてもプロのレベルではなかったのにずっと試合に出してもらいましたから、自分に期待してくれていたことはよく理解していました。広岡さんとしても、あれだけ苦労されて、僕を鍛え上げてくれて、ようやく試合に出られるレベルにまでなったわけですから、そう感じてくれたのかもしれません。でも、僕としてはただただ必死でしたし、“広岡さんの言うことなら間違いがない”と心から信じていました」
教える側、そして教わる側、両者の濃密な信頼関係が広岡と水谷との間には確実に存在した。水谷が広岡から学んだこと、それは「信念」だという。
「広岡さんには、“これが正しいんだ”という信念がありました。そして、僕は“広岡さんの言う通りにしていれば間違いないんだ”という信念がありました。“こんなことをしていて、本当に効果があるのか、意味があるのか?”などまったく考えず、広岡さんの教えを信じていました」
広岡が師事した中村天風、藤平光一、あるいは新田恭一の教えは、そのまま広岡を通じて選手たちに伝えられた。ヨガの伝道者であり思想家の考え、合氣道の達人の極意、ゴルフスイングの理論が、具体的にどのように野球に役立つのか? 選手たちの中には半信半疑で臨む者も多かった。しかし、水谷は愚直なまでに広岡の教えを吸収しようと努めた。その真剣な姿勢は、もちろん広岡にも伝わる。かくして、両者には濃密な人間関係が生まれ、幸福な相乗効果が生まれることになった。