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8年のブランクを経て、ゼロから世界の頂を目指す。アルペンスキーレーサー佐々木明の最高に辛くて最高に楽しかった挑戦の日々
posted2026/02/26 11:00
約4年の再挑戦を終え、インタビューに応じた佐々木明
text by

福田剛Tsuyoshi Fukuda
photograph by
Takuya Sugiyama
2025年12月8日、3年11カ月に及ぶ挑戦は、突然終わりを告げた。
2022年に8年のブランクがありながら40歳で復帰し、ミラノ・コルティナでの金メダルを目指したアルペンスキーレーサー佐々木明は、引退を発表したインスタグラムで、その気持ちをこう綴っている。
“一瞬でも興味を持ってくれた方も
現場でサポートしてくださったコーチ陣の皆さん
共にレースの場で闘ってくれた選手の皆さん
昔共に闘った仲間の皆さん
有難うございました
交通事故から一年で先週の頭への受傷で
自分の感覚とは少しばかり掛け離れた症状が出てしまいまして
やはり健康が大切と言わざるを得ない感覚です
兎にも角にもここまでの人生で僕自身最も輝けた時間となりました。やり切った!”
8年のブランクを経て、挑戦を決意
日本体育大学在学中の19歳で世界選手権とワールドカップにデビューした佐々木は、20歳でソルトレイクシティで4年に一度の大舞台に出場。以降はトリノ、バンクーバー、ソチまで4大会連続出場を果たし、ワールドカップでは、日本人最高位の2位を3度も達成した。日本アルペンスキー界を代表するトップスターだ。
しかし、2014年、32歳でアルペンスキー競技から離れ、整備されていない大自然を滑降するビッグマウンテンスキーへ“転向”する。引退ではなく、あえて転向としたのには理由があった。
「2014年にワールドカップのスロベニア大会を最後に退きましたが、最後のレースも2本目でベストに近いタイムを記録しました。体力の限界を迎えたから辞めるのではなく、もっとスキーを広く、深く捉えるために次の新しいステージに行くだけだから、引退じゃないですよね。だから転向という言い方をしました」
32歳から始めた新たなステージは大きな挑戦、のはずだった。しかし、次第に心の中にはモヤモヤが溜まっていった。果たして、これは挑戦と呼べるのだろうかと。
「あの大舞台は4年に一度、しかもアルペンスキーが行われるのは各種目1日だけ。その1日も実際に滑るのはスラロームだと2本、1本のタイムは50秒~1分なので、2分の物語のためにこれまではすべてを懸けてきたわけです。でも、転向してからは天気予報に合わせて動くので、仲間とご飯を食べに行く時間もあれば、トレーニングをしない日もたくさんある。フレキシブルな時点でもう挑戦ではないんですよね。5年目を過ぎた頃からもう一度やりたいなという気持ちが徐々に強くなっていきました」
しかし、一度トップの世界から退いた者が簡単に返り咲ける世界ではないことは、日本人の中で自分が誰よりも分かっていた。「やっぱり無理だろう」「失敗したらどうしよう」。復帰の二文字はネガティブな感情に押しつぶされていった。
しかし、2022年、40歳となった佐々木はついに決断する。目標は4年後に迫ったミラノ・コルティナへの出場。何度も口に出そうとしながら、諦めていた想い。その引き金をひいたのは、札幌のビジネスホテルの一室だった。
「その頃はいい雪を求めて常に移動していたので、近場で安いホテルに泊まっていました。なんのこだわりもなく予約した部屋が、シングルベッドでしかも喫煙ルーム。タバコくさいベッドの上に座りながら、これを当たり前のように受け入れていた自分に悲しくなった。ここから抜け出すには挑戦するしかないと決めたんです。それも生半可なものではない自分の人生最大のものしかないと」
誰しもが無理と思うもの、自分自身でさえも成功を疑うような、人生を懸けるにふさわしいものは何か。それが4年に一度の大舞台での金メダルだった。
しかし、8年間のブランクを考えると本番まで4年という期間は長いようであまりに短い。
「日本のルール上、開催の前年に強化指定選手に入っていない選手が、代表に選ばれることは100%ありません。しかも、僕の場合はポイントを持っていないので16歳の選手と同じレースからのスタートです。ポイントを積み重ねて強化指定選手に選ばれるためにはどんなにうまくいっても3年はかかる。そう考えるとギリギリ、ラストミニッツでの決断でした」
すべてがゼロからのスタート
ゼロからのスタートはポイントだけの話ではない、競技に向かう体制もゼロだった。ビッグマウンテンスキーに転向する前、アルペンスキーレーサー佐々木の仕事はコースを滑ること。すべての準備は専属のサービスマンが整えてくれた。
「中学生のときからサービスマン、F1で言うメカニックが付いていたのでコースに行ったらすでに僕に合わせてセッティングされたスキーとストックが並んでいました。ちょっとフィーリングが合わないと感じたら、伝えればすぐに調整してくれる。当時はそれが当たり前だと思っていました」
しかし、復帰後それがいかに恵まれた環境だったのかを思い知らされる。マネージャーもサービスマンもなし。レースへのエントリーはもちろん、スキーをコースに運ぶのも自分一人しかいない。ほぼ氷の斜面を滑るアルペンスキーの場合、1台のスキーで滑れるのは2本まで。それ以上はエッジが緩くなるので使いものにならない。練習では最低8本は滑りたい。そう思ったら最低でも4台のスキーを用意する必要がある。
「スキーを4台持つのがこんなに重いのかって初めて知りました。一般のスキーヤーでも分かっているようなワックスの塗り方も、エッジの研ぎ方も一切分からないので、かつて14年間ずっと二人三脚でやってくれたサービスマンの方にオンラインでつないで、やり方を教えてもらいました。でも、やっぱり難しい。結局、最後まで自分の感覚にぴったりと合わせられませんでした」
練習が終わったらワックスを剥がし、次の日のためにまた塗って乾かし、エッジを削る。しかも40代の体は若い頃のようには動いてくれない。練習前後には必ず1時間以上エアロバイクを漕いでストレッチをし、体をほぐす必要がある。すべてをこなすために体を休める時間を削った。
「夜には夜でレースにエントリーしたチームキャプテンのミーティングがあるので参加しなくてはいけないというのも初めて知りました。オンラインで開催するんですけど、名前を呼ばれたら『Yes』と返事をしなければいけない。この返事だけは完璧になりました」
若い頃よりも体力は落ちてはいるが、足りない分は技術と思考でカバーした。
トレーニングと実戦を積み重ね、ミラノ・コルティナに向かっていた2024年8月。最後の1年に向けてこれからというときに事故が起こった。
自転車で練習場へ向かう途中、しっかりと塞がれていなかった工事中の道路の穴に落ち、顔面から道路に打ちつけられる。顔や手に縫うほどの傷ができ、脳脊髄液が漏れるほどの重傷を負った。それでも脳震盪に悩まされながら懸命なリハビリを続け、レースに復帰する。
実はミラノ・コルティナのことを考えなければ、脳のコンディションをよくする治療法があった。
「ブラッドパッチっていう治療法なんですけど、それをやったら半年は安静。つまりミラノ・コルティナは諦めるしかない、だからその治療をせずに復帰しました。脳震盪は甘く見ちゃいけない怪我ですけど、コンタクトスポーツではないから転倒さえしなければやれるんじゃないかって。可能性がゼロなら辞めていましたけど、ゼロでないなら挑戦するのは当然です」
文字通り命を賭しての挑戦。それを支えてくれたのがクラウドファンディングでサポートしてくれた“TEAM AKIRA”の存在だった。佐々木は現役復帰(2022年)の際に1回目のプロジェクトを立ち上げ、1605人の支援者から3440万円のサポートを得た。そして、2025年、勝負の年に2度目のクラウドファンディングを実施、957人から2100万円を超える支援が集まった。
「たくさんの怪我だったり、トラブルがある中で、背中を押してくれたのも、このクラウドファンディングをしてくれた方々です。自転車事故のリハビリでは、何度も心が折れそうになりました。それでも、明日は今日よりも良くなると思えたのは、のべ2,000人を超える方々がついていてくれたから。見えないパワーってあるんですよ」
そして、この4年間サポートを続けてくれたゴールドウインにも感謝の言葉を送る。
「4年前に復帰を決めた報道が出たときにすぐに連絡をくれたのがゴールドウインでした。その場でこれからゴールドウインが歩みたい未来の話をしてくれて、その世界観が僕が思い描いていたストーリーとぴったり合い、未来が一気に加速するような感覚がありました。スポンサーというよりも一緒に歩んできたパートナーというべき存在でした」
最高に辛く、最高に楽しかった4年間
2024年9月、日本代表の強化指定選手にも選ばれ、ミラノ・コルティナの切符を掴む資格は得た。しかし、エンディングは突然訪れる。
2025年12月1日、イタリア・ゾルダで行われたレース中にクラッシュ。病院に運ばれ7時間後に目を覚ましたときはレース前後の記憶を失っていた。
「それ以前にてんかんの症状を起こしたことがあったのですが、この日のレースでも滑っている最中に脳圧が高まり、てんかんを引き起こしたようです。それまでの疲労もあったと思います。ずっと無理していたので。そのままゲートに頭を強打したようでレースの記憶どころか、どのホテルに泊まっていたのかも覚えていない状況でした」
それでも状態を確認するために、6日のオーストリア・ホッホフューゲンのレースを滑る。しかし、脊椎のダメージから右半身の感覚は乏しく、体からすべての力が抜け思い描いた滑りはできなかった。強い気持ちと強い身体、そして培ったテクニックを持って臨むことができないのであれば、レースの舞台に立つ資格はない。そう悟った佐々木は、この挑戦にピリオドを打った。
思い描いたハッピーエンドではなかった。この4年間の感想を聞くと、佐々木は「辛かったです。でも最高に楽しかった」と笑顔で振り返った。
「100%素晴らしい時間となり、100%皆さんを巻き込んでご迷惑をおかけしました。ただ素晴らしい、これを超える人生はこの先ないだろうなという4年間を過ごさせていただきました。もっと言うと、この先これ以上のことを求めなくてもいいくらいの4年間と、自分の精神と体力と痛みだったり喜びだったりを全て出し切った4年間なので、もう超える必要がないですよね。一切、後悔はないです。一切、手を抜かず全てを出し尽くしました」
このインタビューの2日後、引退したはずのアルペンスキーレーサーは気持ちよさそうに札幌の雪原を滑っていた。
「僕の次の目標は今シーズン、またスラロームのゲートを滑ることです」
どうやらこれから先も、佐々木明の挑戦は続いていくようだ。
佐々木 明Akira Sasaki
1981年9月26日生、北海道北斗市出身。アルペンスキー選手としてソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバー、ソチと五輪4大会に連続出場。ワールドカップで日本人最多となる表彰台3回(すべて2位)を獲得。2014年に32歳でビッグマウンテンスキーへ転向。2022年、40歳で復帰を表明しミラノ・コルティナ五輪を目指したが、2024年の自転車事故による頭部外傷と2025年12月の転倒事故を経て、現役引退を発表した。





