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“闘将”柱谷哲二はなぜ、大谷翔平の母校・花巻東を指導しているのか? 30年前の日本代表主将が明かすリーダー論「いったい、キャプテンって何だ」
posted2024/02/21 17:00
text by
北條聡Satoshi Hojo
photograph by
Nanae Suzuki
「闘将」の記憶
想像していた銀世界とは違った。
東京から北へおよそ500km。野球界の革命児、大谷翔平を育んだ大地は、真冬だというのに、雪ひとつなかった。
よもや、かの人の炎によって、ことごとく溶かされてしまったわけではあるまい。ただ、口を開くたびに熱を帯びる様はもうすぐ還暦を迎えるいまも『闘将』と呼ばれた現役時代のままだった。
「確かに闘うということは自分のテーマではあったけど……。まぁ、こういう顔で、大声を出すと怖い顔になるからね。それで常に怒っているようなイメージになったんじゃないかな」
柱谷哲二はそう言って首を傾げつつも、自分なりに落としどころを見つけていた。はるか遠い昔の記憶を――。
大役を任され考えた「キャプテンとはどうあるべきか」
テクニカルアドバイザーとして花巻東高と深く関わるようになったのは2018年だから、もう6年が経つ。きっかけは同じ国士舘大の出身でもある野球部の佐々木洋監督だった。ちょうどサッカー部の監督、指導者を探していたという。当初は断ったものの、最終的にはその熱意にほだされ、承諾するに至った。
仕事は現場で直接指導に当たるだけではない。有望な人材のスカウトから環境整備に至るまで多岐にわたる。絶えずアンテナを張りめぐらせ、根回しや交渉事を少しもいとわぬ姿勢はあの頃と変わらない。選手としての最盛期にキャプテンを担ったオフト・ジャパンの時代である。
「ちょうどJリーグの開幕を翌年に控えた頃。プロとして、より良い環境にしていく必要があると。僕らにはある種の使命感があった。初代チェアマンの川淵(三郎)さんから『何かあったら、必ず言えよ』と。その一言をもらって、黙っていちゃいけない、自分たちの手で変えていくんだと」
闘将とは言っても、ガッツ一本槍で、ひたすら味方へ檄を飛ばすだけの人ではなかった。トレーナーの数を1人から2人へと増やし、食事の際にはフルーツを、キャンプ地ではリラックスルームを用意してもらう。現在では当たり前のことも、当時はそうではなかった。
小中高はもとより、大学時代も決まってキャプテンを担ってきた。生来のリーダーシップが備わっていたからか。いや、本人の見解は違う。