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「会長、すいません…」ユーリ阿久井政悟を変えた“忘れがたい中谷潤人戦”…地方のハンディを克服して“岡山県ジム初の世界王者”になるまで
text by
渋谷淳Jun Shibuya
photograph byHiroaki Yamaguchi
posted2024/01/27 17:02
環境の違いを克服し、“地方ボクサーの星”になったユーリ阿久井政悟。世界王者戴冠に至るまでには大きな挫折も味わった
戦禍の母国から空路で旅立つことができず、バスで18時間かけてポーランドに移動、ワルシャワから飛行機で日本入りした。長い旅路に加え、当初は11月に予定されていた試合が1月に延期となったことも影響したようだ。言い訳を潔しとしないベテラン王者に代わってマネジャーがそのあたりの背景を説明し、ベルトを失った前王者を気遣った。
中谷潤人に敗れ…地方のハンディをどう克服したのか
倉敷守安ジムは元日本ジュニアウェルター級王者の守安竜也会長が1987年、岡山県倉敷市に創設したジムだ。プロ第1号は阿久井の父・一彦さん。阿久井はプロボクサーの息子としてボクシングに興味を持ち、中学2年生のとき本格的にグローブを握る。高校では全国大会ベスト8に入り、東京の大学に進学する話もあったが、地元の大学に進んで倉敷守安ジムからプロ入りした。当時の心境を阿久井は次のように語っている。
「東京でやる自信はなかったですから。高校時代に井上拓真選手(現WBAバンタム級王者)、田中恒成選手(世界3階級制覇)と試合をして負けましたけど、悔しいというレベルじゃなかった。ああ、こういう選手がチャンピオンになるんだろうなって(笑)」
同級生である“花の95年組”の活躍をまぶしそうに眺めながら、阿久井はプロで勝利を重ね、徐々に自信をつけて目標を高めていく。ところが13戦目でのちの2階級世界王者、中谷潤人(M.T)とのホープ対決でプロ初黒星。中谷に打ちまくられてストップとなり、コーナーに戻った阿久井がうつろな表情で、「会長、すいません」と言葉を絞り出したシーンは忘れられない。そしてこの試合が阿久井を変えるきっかけになった。
よく、地方ジムにはハンディがあると言われる。最大のハンディは練習相手がいないことだ。相手がいなければスパーリング(実戦練習)がどうしても不足する。また、有力なライバルが近くに何人もいれば刺激を受け、切磋琢磨して練習の質も高まるというものだ。東京の有力ジムのように専属のトレーナーがいないのも痛い。そうした不安が中谷戦ですべて露呈してしまったのである。
ジムを移籍するのも一つの手には違いない。しかし、父が汗を流し、中学時代から面倒を見てもらった守安会長がいるジムを去るという選択肢はなかった。環境のせいには絶対にしたくない。阿久井はそう考え、自ら東京に出向いて武者修行を重ねた。東京や大阪で試合のオファーがあれば決して断らず、物怖じせずに大手ジムや外国の選手に向かっていった。こうして手にしたのが今回のチャンスだった。