ボクシングPRESSBACK NUMBER
大橋秀行の左ボディで王者が転げ回り…「一番強いヤツと闘いたい」日本ボクシング界の救世主が“最強の挑戦者”リカルド・ロペスを選んだ理由
text by
森合正範Masanori Moriai
photograph byKYODO
posted2023/10/09 18:07
1990年2月、王者・崔漸煥を左ボディでKOし、跳び上がって喜ぶ大橋秀行。日本人世界王者不在の時代にピリオドを打った
「謎に包まれた最強の挑戦者」リカルド・ロペス
大橋は初防衛戦で、井岡弘樹が3度闘っても勝てなかったタイのナパ・キャットワンチャイを退けた。そして2度目の防衛戦を迎える。ランク1位で韓国の李敬淵(イ・ギョンヨン)の挑戦を受けることがほぼ確実だったが、大橋の強い要望もあり急転する。「最強の挑戦者」と呼び声の高い、ランク4位のリカルド・ロペス(メキシコ)戦に決まった。
ロペスは25戦全勝(18KO)。素晴らしいを意味する「Finito(フィニート)」のニックネームを持つ。長期政権が期待される大橋があえてロペス戦を選んだ背景について、当時の専門誌でこう語っている。
「ストロー級(当時)の権威を高めるため、こういう強い選手と戦いたい。敵に背を向けたくない」
「弱い挑戦者ばかりを選んで防衛を重ねるくらいなら、勝っても負けてもいいからロペスみたいな本当に強いヤツと試合をしたい」
「世界の肩書きがあるのに、相手が東洋ばかりではおかしい」
一番強いヤツと闘いたい。それが大橋イズムなのだ。
まだYouTubeもWOWOWの『エキサイトマッチ』もない時代。ロペスの情報は陣営から送られてきた2本のビデオしかなかった。1本目は4年前の試合。4回から突如収録されており、ロペスは華奢でスピードもない。2本目は最新試合だったが、こちらは4回でプツリと切れてしまう。しかも観客席から素人が撮ったような映像で、ロペスが劣勢になり、仰け反るシーンが収録されていた。
ビデオを見た誰もが「弱い、パワーがない」とイメージする内容だった。戦績や前評判と乖離があり、専門誌には「実体のつかめないロペス」の見出しが躍った。だが、ロペスが来日すると、一気に情勢が変わる。
「ジムでロペスが練習した後、トレーナーはじめ全員の顔が真っ青になっていたんです。米倉会長も『うーん……』と唸っている。その様子を見て、相当すごいんだなと思いましたね」
大橋が乗り越えなければならないのは、未知の強敵だけではなかった。ミニマム級での減量は限界を超え、毎試合のように脱水症状になり、体温が38度5分まで上がる。記者会見のときは気づかれまいと、脇に氷を挟んで36度台の平熱を装っていた。ロペス戦では減量苦に加え、風邪気味でコンディション調整にも苦しんだ。満身創痍の状態で、のちに“殿堂入り”を果たす男との防衛戦に臨むことになった。
<第4回に続く>