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「じつは暗黒時代も数十人飛び込んでいた」なぜ阪神ファンは道頓堀ダイブする? “異常だった”20年前5300人飛び込みでトラブル、逮捕者&死者まで
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2023/09/23 11:04
筆者は優勝決定前に道頓堀、戎橋周辺を取材した
道頓堀川が開かれたのは江戸時代のはじめで、安井道頓という人が最初に手がけたことから道頓堀の名が付いた。道頓は大坂の陣で戦死してしまったが、いとこの安井道卜が引き継いで完成させる。道卜は道頓堀川周辺の活性化のため、南船場にあった芝居小屋を道頓堀川南側に移転させ、芝居小屋や芝居茶屋が建ち並ぶ町に育てている。1620年代のことである。
どうやらその頃には木造の戎橋も架けられていたようで、さらに戎橋から続く戎橋筋は今宮戎神社の参道としての役割も持った。戎橋で道頓堀川を渡ると芝居小屋が建ち並ぶエリアに入り、そこから今宮戎に続く参道の賑わい。戎橋のたもとには人形浄瑠璃の竹本座があり、それにちなんで「操橋」などと呼ばれていたという。いまとはもちろん姿形は違うが、江戸時代初期にもう道頓堀と戎橋の賑わいの原型は完成していたというわけだ。
「ひっかけ橋」という異名も…
その賑わいは明治に入っても続く。江戸時代以来の芝居小屋・劇場は松竹の経営となり、「道頓堀五座」として名を馳せる。橋の北のたもとには丸萬の煙突があってシンボルに。明治はじめには鉄の橋にかけ替えられ、さらに大正末には石・コンクリートに変わる。そこから昭和のはじめごろにかけてはモダニズム時代のミナミの象徴として、東京の「銀ブラ」ならぬ心斎橋の「心ブラ」が流行する。1935年には、いまも戎橋のシンボルであるグリコのサインも登場している(ちなみに現在のグリコサインは6代目です)。
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戦争で周囲は焼け野原になったが石造りの戎橋は生き残り、戦後の復興もめざましい。グリコサインは1955年に復活。時代の趨勢もあって、バブル崩壊後に「五座」の劇場は姿を消してしまうものの、多くの人が集まる繁華街の中心という存在感は変わらない。90年代半ばから00年代前半にかけて、戎橋はナンパの名所として「ひっかけ橋」などという異名も取っていた。
1985年優勝時は“生暖かかった”
と、つまり戎橋と道頓堀は、東京でいうなら浅草・銀座・新宿・渋谷あたりの繁華街をまとめて凝縮させたような、そういう歴史と役割を持ち続けてきた。普段から人通りが多いうえに、橋の上で待ち合わせをする人もいるし何かがあるととりあえずここに集まる、みたいなスポットだ。