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バレーボールPRESSBACK NUMBER
「追いつけない自分が悔しかった」“静かなるエース”宮浦健人が明かしたライバル西田有志への本音…躍進続く男子バレー〈エリートの逆襲〉
text by
田中夕子Yuko Tanaka
photograph byYuki Suenaga
posted2023/09/07 11:16
ネーションズリーグでは不調に喘いだ西田有志に代わり、大車輪の活躍だった宮浦健人
鎮西高校、早稲田大学では押しも押されもせぬ不動のエースだった。U19日本代表では主将を務めて2017年世界ユース選手権で銅メダル獲得に貢献。経歴だけをたどれば、エリート街道を歩んできたように見える。
だが、現実は違う。
「振り返ると、思い通りに行ったことのほうが少ないんです。むしろうまくいかないこと、苦しいことばかりでした」
小学生からバレーボールを始め、バレーボール部ができたばかりの鎮西中に進学。そのまま鎮西高へ進むと、2年時の春高バレーで全国準優勝を経験した。主将として迎えた新学期、「今年こそ頂点に」と意気込む矢先の2016年4月14日、宮浦が住む熊本県熊本地方を最大震度7の地震が襲った。
熊本市にある鎮西高の体育館は半壊。天井が落下し、建て直さなければ練習ができない状況になった。さらに地震からしばらくは近くの小学校へ避難し、避難所での生活を余儀なくされた。宮浦が「一番つらかった」と振り返る時期である。
コーチが目撃した暗闇を走る姿
1カ月ほどが過ぎてからようやく学校生活が再開されたが、練習できる体育館はない。市内の公共施設も使用することができず、近隣の福岡県まで宮迫竜司コーチが運転するバスで1時間以上かけて向かった。練習時間は1時間半あるかないか。6限目まで授業を受けた後の移動と練習で、学校へ戻ると街灯も消え、周辺は真っ暗。それでも、誰かから言われるわけでもなく暗いグラウンドを1人で走り、黙々とトレーニングに励むのが宮浦だった。宮迫コーチが当時を回顧する。
「練習量が足りていないのを自分が一番わかっていたので、とにかくコツコツ、諦めずに、誰も見ていなくても努力していました。避難所で生活していた時に一度だけ『これからどうなるんですかね』と口にしたことはありましたが、その後は一切弱音も吐かずにやるべきことをやり続ける。バレーボールも同じなんです。どんなトスが来ても絶対にトスのせいにしないし、人のせいにしない。どの状況も絶対に『自分がエースだから、自分が決める』と覚悟を持って打つ。背中で、みんなを引っ張る選手でした」
優勝候補の一角とされながら、最後の春高は初戦で敗れた。地震で練習が思うようにできなかった。時間が足りなかった。探せばいくらでも言い訳は見つかるが、それを一切口にせず「自分が弱かったから負けた」と歯を食いしばった。