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「まったく歯がたたず全敗」日本男子バスケが打ちのめされた日…折茂武彦、佐古賢一が明かす「心が折れてしまった」世界との圧倒的な差とは
posted2023/09/01 06:01
text by
小永吉陽子Yoko Konagayoshi
photograph by
AFLO
現在発売中のNumber1079号掲載の[レジェンドたちの記憶]世界への扉を叩き続けた開拓者たち。<折茂武彦/佐古賢一/網野友雄>より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】
日本男子バスケットボールの歴史を語るうえで、ターニングポイントになっているのが、1998年と2006年の世界選手権だ。
当時『世界選手権』の名で開催されていた4年に一度の世界一決定戦は、'14年から名称が変更されて現在の『ワールドカップ』へと生まれ変わっている。日本では'98年は31年ぶりに自力で出場権をつかみ、'06年はホスト国として臨んだ大会として、記憶に刻まれている。
大きな括りでいえば、'98年も'06年も今も世界の中での立ち位置は変わらないかもしれない。しかし取り巻く環境面でいえば、この二十数年の間にプロリーグが立ち上がり、育成年代から世界大会を経験する選手が増え、進路の選択肢が海外に及んでいる。何より田臥勇太、渡邊雄太、八村塁、3人のNBA選手が誕生し、子どもたちにとって夢が広がるバスケ界へと成長している。
こうして環境面が大きく変わってきた背景には、「日本のバスケットボールを変えたい」と訴えかけ、もがき続けた男たちがいたことを忘れてはならない。
折茂武彦、佐古賢一、網野友雄。彼らは現在、バスケ界を支えるポジションで奮闘している。
折茂はレバンガ北海道の社長として奔走し、佐古は今季から古巣のシーホース三河に戻り、2026年に発足するBプレミア(新B1リーグ)に向けてクラブを統括するシニアプロデューサー職に就任した。網野は白鷗大学とU22日本代表を率いる監督として、若手の育成に尽力している。彼ら3人は、日本のバスケを変える方法さえわからなかった不遇の時代に「日本代表が勝つことで日本のバスケは変わる」と信じ、誰よりも日の丸に誇りを持って戦い続けてきた代表格である。
'98年当時、世界選手権の出場枠は16、アジアからは2
'90年代、絶対的な司令塔として君臨した佐古とトップスコアラーだった折茂は、互いを認め合う存在として共闘してきた。'98年当時、世界選手権の出場枠は16で、アジアからは2つの切符しかなかった。そんな狭き門の中で日本はアジア選手権で2位へと躍進し、世界への切符を勝ち取っている。