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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「だらしねえな」屈辱の敗戦…大人気の裏で“タイガーマスク前夜”の佐山聡はなぜ葛藤したのか? 運命を変えたアントニオ猪木の“ある言葉”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/08/12 11:00
1981年に生まれたタイガーマスクは、引退までの3年間を駆け抜けた
佐山は新日本道場での練習だけでなく、“鬼の黒崎”と呼ばれた黒崎健時が主宰する目白ジムに通い、キックボクシングのトレーニングも積んでいた。そして猪木の格闘技戦に影響を受け、他競技との闘いに強い興味を持っていた佐山は、練習をするだけでなく、格闘技について独自で研究をして新たなものも生み出していく。
’77年10月25日、日本武道館で行われたプロボクサーのチャック・ウェップナーとの格闘技世界一決定戦において、猪木はボクシンググローブとは違う掴めるグローブ、いまMMAで使われているオープンフィンガーグローブの原型のようなものを両手にはめて闘ったが、これはブルース・リーの映画をヒントに若手だった佐山が考案し、それを猪木が採用したものだった。
当時、付き人だった佐山は猪木と格闘技の未来についての話をたびたびしたという。そしてある時、佐山が猪木に「新日本プロレスの中に、格闘技部門を作ったらどうですか?」という話をした際、「おまえを第1号にする」と言われたという。このひと言が佐山の意識を変えた。これ以降、若き佐山の目標はプロレスのメインイベンターになることではなく、新日本所属の格闘技選手として活躍することに変わったのだ。
デビュー1年半でやって来た“屈辱の敗戦”の日
実際、佐山はデビュー1年半で、リアルファイトの他流試合を経験している。’77年11月14日、日本武道館で行われた梶原一騎主催の『格闘技大戦争』という格闘技イベントで日本vs全米プロ空手の全面対抗戦が行われることとなり、プロモーターの黒崎健時から新日本に「重いクラスの選手がいないので佐山を貸してほしい」という要請があり、キックボクシングルールの試合に出場することになった。
相手は全米プロ空手ミドル級ランキング1位のマーク・コステロ。この時、佐山はキックボクシングの練習を始めてまだ1年であり、相手の土俵であるキックボクシングルールの試合はあまりにも無謀だったが、プロレスラーとしての意地と根性で、7回ダウンを奪われ判定負けを喫するも、最後までリングに立ち続けた。
当時、異種格闘技戦においてプロレスラーは「負けてはいけない」時代。相手の土俵でのリアルファイトとはいえ、先輩レスラーの一人から「だらしねえな」と言われるなど、佐山にとっては屈辱の敗戦ではあったが、この悔しさをバネにますます格闘技での強さを追求するようになっていく。
そしてマーク・コステロ戦の半年後、今度は佐山に海外遠征の話が持ち上がる。デビュー2年で早くも海外に出るというのは、これまた異例で、佐山への期待の大きさがうかがえたが、その遠征先は皮肉にも格闘技とは真逆ともいえるショー的要素の強いルチャ・リブレの本場メキシコだった。