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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
アントニオ猪木が生前に明かした「後継者」の名前…佐山聡はなぜ人気絶頂で“虎のマスク”を脱いだのか?「タイガーマスクは猪木イズムの結晶」
posted2023/08/12 11:01
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
東京スポーツ新聞社
1981年春、イギリス遠征中の佐山聡に帰国命令がくだる。日本に帰ってきた佐山の前に用意されていたのが、虎のマスクだった。この時期、テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、それに合わせて実際のリングでもタイガーマスクを登場させるという、メディアミックスの企画として、佐山に白羽の矢が立てられたのだ。しかし、当初この「タイガーマスク」は、それほど期待されていなかったと、『週刊プロレス』元編集長ターザン山本は語る。
「タイガーマスクをリングに登場させようという企画は、当時の新日本営業本部長である新間(寿)さんと、原作者である梶原一騎さんの茶飲み話の延長みたいなもので、新日本とテレビ朝日がガッチリ組んだ企画ではなかった。だから、最初はマスクも急ごしらえで粗悪なものだったんですよ。また、当時のプロレス界において、小柄な覆面レスラーが飛んだり跳ねたりする試合は、“お子様ランチ”呼ばわりされて、業界関係者や大人のファンは半ば馬鹿にしていた。しかも当時の新日本はシビアなストロングスタイルを標榜していたので、漫画のキャラクターであるタイガーマスクの登場は、冷ややかな目で見られていたんです」
失笑する観客の度肝を抜いた“衝撃のデビュー戦”
事実、タイガーマスクのデビューは、テレビ朝日系『ワールドプロレスリング』の番組内で「次週、タイガーマスクが登場します」と、控えめに予告されただけで、前宣伝がされたわけでもなく、粗悪なマスクとマント姿で入場してきた際は、失笑も起こっていた。ところがタイガーは、ダイナマイト・キッドとのデビュー戦(’81年4月23日、蔵前国技館)で、のちに「四次元殺法」と称される、これまで観たこともないような斬新な動きで観客の度肝を抜き、一夜にして大ブレイクをはたす。
この大ブレイクによって、「1試合だけ」のはずが、レギュラーで日本に定着することとなったのだ。それ以降、タイガーマスクの人気は上がる一方。しかし、当の佐山は複雑な思いを抱えながらリングに上がっていた。
「1試合だけのはずだったタイガーマスクを続けるというのは会社の方針ですし、個人的な感情より新日本のことを考えてました。だから、そこに自分のためという気持ちは全くなかったんです。新日本のためっていう気持ちですね。そのときは、猪木さんに言われた『おまえを格闘技の第1号にする』という言葉を信じてましたし……」(佐山)