- #1
- #2
ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
「だらしねえな」屈辱の敗戦…大人気の裏で“タイガーマスク前夜”の佐山聡はなぜ葛藤したのか? 運命を変えたアントニオ猪木の“ある言葉”
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2023/08/12 11:00
1981年に生まれたタイガーマスクは、引退までの3年間を駆け抜けた
メキシコ遠征で開花した「空中殺法」
佐山はのちにこう語っている。
「メキシコ行きを聞いたときは、ショックでしたね。意味がわからなかった。もう自分はこれから格闘技戦をやるもんだとばかり思っていたし、そういう練習ばかりしてましたから。でも、会社命令だから断れないし、『新日本プロレスのために頑張ろう』って、気持ちを切り替えてメキシコに行きました。ただし、向こうに行っても格闘技の練習は欠かさない、ということを自分に課してました。メキシコはボクシングが盛んだから、ジムに行くとたいていサンドバッグがあるんですよ。だから暇さえあれば、そのサンドバッグを使って蹴りの練習ばかりしてましたね」
このように半ば嫌々行ったメキシコ遠征だったが、ここで佐山は才能を早くも開花させる。現地のトップレスラーとなり、渡墨1年でメジャータイトルNWA世界ミドル級王座も奪取するのだ。
「やっぱり新日本プロレスの名前を背負って出てるわけだから、しっかり活躍しなきゃいけないと思って、自分なりに向こうでウケる動きを研究したんですよ。それが空中殺法だったりするんだけど、僕はけっこう器用なんで、できちゃうんですよね。あとは自分の蹴りを活かすために、ブルース・リーみたいな動きを取り入れて。そういったものが、メキシコですごく評価されたんです」
佐山に用意された“虎のマスク”
空中殺法や華麗な蹴り技を使うタイガーマスクの“原型”は、メキシコですでにできあがっていた。その後、1980年に“ブルース・リーの従兄弟”サミー・リーを名乗ってイギリスに転戦すると、ここでも人気が爆発。佐山のプロレスはマスクを被る前から、言語、人種の壁を超えて人々を魅了していた。佐山は誰よりも格闘技志向であったにも関わらず、プロレスの才能がありすぎたため各国で大スターとなったのだ。
そんな佐山に1981年春、突如、帰国命令がくだる。イギリスでの試合スケジュールがすでに決まっていた佐山は一度はこれを断るが、新間寿の度重なる説得に応じ、一時帰国を承諾。そして3年ぶりに日本に戻ってきた佐山に用意されていたのが、虎のマスクだった。
〈タイガーマスクに姿を変えた佐山聡は、ここからスターダムへと駆け上がっていく。後編「佐山聡は虎のマスクをなぜ脱いだのか?」編では、40年前の8月12日に起きた“電撃引退”までを紐解きます〉
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。